樋泉克夫教授コラム

【知道中国 880】                     一三・三・念五
  
 ――「油糟の臭気・・・亦た支那旅行の一記念」

 『支那に遊びて』(河東碧梧桐 大阪屋書店 大正8年)

 明治6(1873)年に伊予の松山に生まれ、同級生の高濱清(後の虚子)と共に正岡子規に師事し、新傾向俳句を掲げ、盧溝橋事件勃発5ヶ月前の昭和12(1937)年2月に没した河東碧梧桐は、大正7(1918)年、上海を発ち「日本には一番親しい明州の津」であり、「日本で入唐普天と言った僧の修行や、其の他遣唐使や留学生やが、先ず支那の土を踏んだ第一の上陸地だった」寧波を経て、紹興、蘭亭趾、禹陵、王陽明祠などを巡った。

 先ず彼の眼に飛び込んできたのが「一望見渡す限り」の「行く手を見ても、過ぎ去ったうしろを振り返っても、ただ其の小山許りが、累々としている」風景である。「驚くべき共同墓地!」だった。陰宅と呼ぶあの世の住いである墓地でも風水を「迷信的にやかましく穿鑿」し、「自分の田であろうが、人の畑であろうが、方位の許す所に、柩を置き放しにする。それを邪魔だとも不縁起だとも」思わない。「一旦共同墓地的に、埋葬地をきめてかか」るから、「真に驚くべき土饅頭の数」となってしまう。そこで、河東は「個人――利己に徹底していると見られる支那人は、亦墓地にも徹底しているのだろうか」と考えた。

 かつての巨大な港市としての栄華がウソだったように凋落した寧波を歩き、「日本の歴史と因縁深いこの土地」の住人の心を忖度して、「輸出文明にこそ多くのものがあれ、輸入文明は寧ろ国家の恥辱である」とした後、「対外的には国家を意地汚く口にする支那人は、上海にしろ漢口にしろ、天津にしろ、青島にしろ、それが悉く輸入文明によって、築かれている現状と事実の前には、其の饒舌な口を噤まねばならない」と語り、文明を輸出し、「大唐大宋大明と大字を我物顔に使っていた時代」に思いを馳せる一方で、「対外的には国家を意地汚く口に」する革命家ですら、その多くが「一身の安全を外国租界地に求めている」ことに疑問の声を挙げる。革命家たる者は帝国主義による中国蚕食の象徴である租界地に身の安全を求めるな、という檄なのか。

 「四辺の光景と如何にも不釣合いに野晒しにされている」建造物を前にして、「どうしても何千年の昔の面目を改めたとは思われないのだ。イヤ何千年前の方が、もっと整った、もっと興味のある、もっと大支那らしい面目を保っていたかも知れない、・・・そう想像した方が自然である程に、物の落莫さを感ぜしめる」と呟く。だが自然は美しい。「自然と気も澄み、尊い匂いに打たれる、我ながら画中の人のような思いをしている眼先きに、これは又余りにもあからさまに、余りにも無造作に、之を見のがすことの出来ない人糞一塊! 更らに支那的に現実暴露がここに行われている」とも憤慨する。

 どの遺跡であれ、ほぼ例外なく清朝中期以前の姿が残されていない現実を前にして、「支那という国は、どうしてかように、過去を抹殺するに性急なのだろう」と疑問を呈し、「多数の支那人の生活が、未来の理想も、過去の追慕をも切り放した、無自覚な今日主義に魅化されている」と感じ、「ただ民衆が一切の過去を忘れた時、其の過去の思想が消滅してしまうように、一切の過去の物質も亦た無に帰す」。だから「先ず今日の民衆の思想を呪わねばならないのだ」と、中国の根本病理は民衆の「無自覚な今日主義」だと説く。

 そんな中国に如何に対応すべきか。「友邦の補導ということも、押し詰めて行けば、政治や経済の当面の問題ではなく、やがて其の民衆の体質にも生活にも及んで来る、そこまで徹底しなければ、総てが皮相の解決に了ってしまう。先ず水という観念を与えるだけでも、友邦補導の上の大事業でなければならない」と、先ずは環境衛生観念だと、俳人・碧梧桐は力説する。旅の先々で直面した汚さに、余ほど閉口したのだろう・・・同感。《QED》


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