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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 881】 一三・三・念七
――「乳臭の学生に何の政治問題が解るのか」
『絵の旅 ――朝鮮支那の巻』(石井柏亭 日本評論者 大正10年)
日本画家を父に彫刻家を弟に、明治15(1884)年に東京に生まれ、昭和33(1958)年に没した版画家・洋画家・美術評論家の石井柏亭は、北京で五・四運動が勃発し、反日機運が高まっていた大正8(1919)年の5月、上海とその周辺を歩いている。
先ず彼の眼に留まったのは纏足の農婦だった。「よくあれで労働が出来たものだと思う」と感心し、次いで今や兵営へと変貌した「寺前の広場で小人数の教練をみたが、年取ったのと若いのと、丈の高いのと低いのと入交って実に滅茶苦茶なものだ。而して彼らは暇さえあれば近隣の茶館に入って賭博でもやるのだろう。其鼠色の軍服にしても実にだらしないものだ」と呆れる。古くから伝わる「好鉄不当釘、好人不当兵(いい鉄は釘にならず、いい人は兵にならない)」の10文字の意味を知ったようだ。
また河東碧梧桐と同じように、共同墓地の異様な姿にも驚きを隠さない。上海郊外で「麦秋の野に働く農民の点々たるを見る。処々に隆起する塚がある。塚とは墓とかなって居るのはいいが、共同墓地に棺がごろごろして居る其間を歩いたりするのは気持ちが悪い。楠かなどで丈夫に出来て居る棺であるにしろ、其なかに死体が今如何なる状態になって居るかが地中に埋もれているよりも余計に聯想されるからである」と。確かに、それはそうだ。
街では反日運動に遭遇し、「辻々の少し明いた壁面には種々様々な伝単が盛んに張られていた。『餓死東洋鬼』と云うようなひどい誹謗的な文句も見える。日本と云う文字を亀の形にもじったものもある。稚拙笑う可き漫画の類もある。工務局ではそれ等の誹謗的伝単を禁止する旨の触れを出し、巡警が一々それ等を剥して歩いたりしても、又何時の間にか貼られる。まるで飯にたかる蠅と同じで始末にいけない」と悲憤慷慨の態だ。
「東洋鬼」とはお馴染みの日本人に対する別称で、亀はアホな男を指す。些か下劣な表現だが、今風に表現すれば、東洋鬼も亀も排日のキーワードということになる。
工務局、つまりは治安当局による伝単禁止令がでると、「今度はそれに代ゆるに『堅持到底制日貨』等の文字を大書した白旗」が持ち出される。夜明け前までに「抵制日貨と云う板を作って、それを電柱と言わず壁と言わず手当たり次第に捺してゆく」。そこで「商賈が店を閉めだした。学生等に迫られてするのが大部分であろうが、学生等は商賈の閉店は自発的と主張して居る。女学生迄が尻馬に乗って電単を配ることなどを手伝って居る」。「店が閉まると其表戸は又伝単の貼場になった」。市場も閉鎖され、住民は食糧の心配をはじめる。それでも中国人は何とかなろうが、手立てのない日本人は困ってしまう。労働者までもが罷業に入り、交通機関はマヒ状態となる。
だが北京で「曹、章、陸と云うような所謂親日的の官吏が罷められたことによって、排日運動にも一段落着がついた。市中の商賈は数日前から其店を開け出した」。だが「まだ騒ぎが静まりきったとは曰われない。市場は復旧したが、支那商店の或ものは単に日貨を排斥するに止まらず『日人免進』と云う貼札をして日本人に物を売らぬという馬鹿げた真似をして居る」。さらには「日本人が支那服に仮想して水道とか食品とかに毒を入れて歩くと云う馬鹿馬鹿しい流言が割合に下級民の信ずるところとなって居て、それが為めにとんだ危害を被るものも鮮なくなかった」。「少し普通の支那人と相貌が違」っていた友人などは、「車上に在って群集に『東洋人』と叫ばれ困った」らしい。
ここで「日本人を罵倒することは中国人の暇潰しの一種」との林語堂の“至言”が頭に浮かぶが、反日感情は永遠に不滅であることを、やはり肝に銘じておくべきだろう。《QED》
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