樋泉克夫教授コラム

【知道中国 882】                      一三・三・念九
  
 ――「所詮支那程下らない国は何処にもあるまいと考えた」(芥川の上)

 『支那游記』(芥川龍之介 改造社 大正14年)
 
 芥川を乗せた筑紫丸が上海に向けて出航したのは大正10(1921)年3月21日。遅くとも24日には上海の埠頭に降り立ったことだろう。芥川の上海到着から4ヵ月後の7月、上海フランス租界の一角で中国共産党第1回大会が行われている。芥川は、なんとも面白い時期に中国を体験したものだ。

 「埠頭の外に出たと思うと、何十人とも知れない車屋が、いきなり我我を包囲した」。「我我とは社の村田君、友住君、国際通信社のジョオンズ君並に私である」。ここで芥川は、「抑車屋なる言葉が、日本人に与える映像は、決して薄汚いものじゃない。寧ろその勢の好い所は、何処か江戸前な心もちを起させる位なものである。処が支那の車屋となると、不潔それ自身と云っても誇張じゃない。その上ざっと見渡した所、どれも皆怪しげな人相をしている」と、車屋つまり人力車夫の姿に呆れはてる。

 上海の中国人街を歩いて、「支那の紀行となると、場所そのものが下等なのだから、時時は礼節も破らなければ、溌溂たる描写は不可能である。もし嘘だと思ったら」と断わったうえで、今は寂れたが由緒正しき茶館の前で、「その一人の支那人は、悠悠と池へ小便をしていた」光景を記し、中国で何が起ころうが、世の中がデングリ返ろうが、「そんな事は全然この男には、問題にならないに相違ない。少くともこの男の態度や顔には、そうとしか思われない長閑さがあった。曇天のそばに立った支那風の亭と、病弱な緑色を拡げた池と、その池に斜めに注がれた、隆隆たる一条の小便と、――これが憂鬱愛すべき風景画たるばかりじゃない。同時に又わが老大国の、辛辣恐るべき象徴である」と納得するのだが、「そう云えば成程空気のなかも、重苦しい尿臭が漂っている」と付け加えることを忘れない。

 乞食に出会った芥川は、「支那の乞食となると、一通りや二通りの不可知じゃない。雨の降る往来に寝ころんでいたり、新聞紙の反古しか着ていなかったり、石榴のような肉の腐った膝頭をべろべろ舐めていたり――要するに少少恐縮する程、ロマンティックに出来上がっている」。そこで日本の乞食と比較して、「日本の乞食では支那のように、超自然的な不潔さを具えていない」と断じた後、彼らが位置する前の「敷石を見ると悲惨な彼の一生が、綺麗に白墨で書き立ててある。字も私に比べるとどうやら多少はうまいらしい、私はこんな乞食の代書は、誰がするのだろうと考えた」と、乞食の“商法”に興味を示す。

 じつは70年代戦半の香港留学時でも経験したし、最近の中国の地方都市を歩いても目にすることだが、乞食が目の前の道路に墨痕、いや白墨痕も鮮やかに自らの来歴を綴っていたのに出くわし、酷く“感激”したし、するものだ。「字も私に比べるとどうやら多少はうまいらしい」どころか、やや大袈裟にいうなら、日本では習字教授の商売もできそうな程に上手い字も少なくない。もちろん文章も素晴らしい。ということは、こと乞食商売に関していうなら、伝統的商法は健在といえそうだ。

 汚い話に戻るが、芥川は「一体上海の料理屋は、余り居心地の好いものじゃない」と苦言を呈し、上海で超一流の料理屋で友人にご馳走になった際の経験を、「給仕に便所は何処だと訊いたら、料理屋の流しへしろと云う。実際又其処には私より先に、油じみた包丁(コック)が一人、ちゃんと先例を示している。あれには少なからず辟易した」と綴る。

 九江での話は、やはり一種の感動モノといってもよさそうだ。芥川の目の前を進む「船の蓬の中からは、醜悪恐るべき尻が出ている。その尻が大胆にも、――甚尾籠を申し条ながら、悠悠と川に糞をしている。・・・・・」。芥川も相当に面食らっただろう・・・に。《QED》


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