樋泉克夫教授コラム

【知道中国 883】                    一三・三・三一
  
 ――「愈々支那は気に食わない」(芥川の中)

 『支那游記』(芥川龍之介 改造社 大正14年)

 芥川は、「支那」に対する怒りの矛先を豚、それも死んだ豚にまで向けている。

 長江を遡行して訪れた景勝地の廬山で「若葉を吐いた立ち木の枝に豚の死骸がぶら下がっている。それも皮を剥いだ儘、後足を上にぶら下がっている」。そこで「一体豚を逆吊にして、何が面白いのだろうと考え」た芥川は、「吊下げる支那人も悪趣味なら、吊下げられる豚も間が抜けている。所詮支那程下らない国は何処にもあるまいと考えた」。 

 ここまで考えたら、後はもう一瀉千里である。

 廬山を見ては、「廬山らしい気などは少しもしない。これならば支那に渡らずとも、箱根の山を登れば沢山である」。

 連れて行かれた有名な料亭の庭を眺めては、「洪水後の向島あたりと違いはない。花木は少ないし、土は荒れているし、『陶塘』の水も濁っているし、家の中はがらんとしているし、殆御茶屋と云う物とは、最も縁遠い光景である」。

 「さすがに味だけはうまい支那料理を食った」にもかかわらず、「この御馳走になっている頃から、支那に対する私の嫌悪はだんだん逆上の気味を帯び始めた」。そして遂に、「私は莫迦莫迦しい程熱心に現代の支那の悪口を云った。現代の支那に何があるか? 政治、学問、経済、芸術、悉堕落しているではないか? 殊に芸術となった日には、嘉慶道光の間以来、一つでも自慢になる作品があるか? しかも国民は老若を問わず、太平楽ばかり唱えている。・・・私は支那を愛さない。愛したいにしても愛し得ない。

 この国民相腐敗を目撃した後も、なお且支那を愛し得るものは頽唐を極めたセンジュアリストか、浅薄な、支那趣味のしょう怳者であろう」とまでいい切るのであった。(尚、「しょう」の漢字は、「口」へんに「尚」)
 「莫迦莫迦しい程」と正々堂々と綴っているが、さて、どの程度までに「熱心に現代の支那の悪口を云った」のか。その程度を知りたいものだが。

 北京では「薄汚い人力車に乗り」、「北海の如き、万寿山の如き、或は又天壇の如き、誰も見物もののみにはあらず。文天祥祠も、楊椒山の故宅も、白雲閣も、永楽大鐘も(この大鐘は半ば土中に埋まり、事実上の共同便所に用いられつつあり。)」見物し、男女の席を厳格に分けているがゆえに、父親と幼い娘であっても別々に坐らなければならず、父親は「こちら側に坐りながら、(席を分ける)丸太越しに菓子などを食わせていた」姿を眼にして、「まことに支那人の形式主義も徹底したものと称すべし」と洩らす。

 救国の英雄である文天祥を祀った文天祥祠は、「亦塵埃の漠々たるを見るのみ」。清朝王宮の紫禁城は「こわ悪魔のみ。夜天よりも厖大な夢魔のみ」
 かくして芥川は、「しかし杜甫だとか、岳飛だとか、王陽明だとか、諸葛亮だとかは、薬にしたくてもいそうじゃない。云い換えれば現代の支那なるものは、詩文にあるような支那じゃない。猥雑な、残酷な、食意地の張った、小説にあるような支那である。・・・文章規範や唐詩選の外に、支那あるを知らない漢学趣味は、日本でも好い加減に消滅するが好い」と結論づける。

 芥川の説く「支那あるを知らない漢学趣味」の弊害は一向に改まることなく、戦争期を経て毛沢東の時代に絶頂に達し、現在までも絶えることなく続いている。いったい、いつになったら改まるものなのか。「百年、河清を待つ」わけにもいられまい・・・に。《QED》


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