樋泉克夫教授コラム

【知道中国 884】                     一三・四・初二
  
 ――「いったい君は正気かどうか、それさえも怪しいような」(芥川の下)

『支那游記』(芥川龍之介 改造社 大正14年)

 芥川は「支那あるを知らない漢学趣味」だけではなく、中国滞在の長い日本人が頑なに抱く「第二の愛郷心」が、じつは日本人の中国理解の弊害になっていると思い至った。そこで「苟も支那を旅行するに愉快ならんことを期する士人は土匪に遭う危険は犯すにしても、彼等の『第二の愛郷心』だけは尊重するように努めなければならない」と“助言”しているが、どうやら彼らを敬(軽?)して遠避けよ・・・ということのようだ。

 上海でも北京でも、芥川は当時の中国でも第一級の「戯遊(しばいくるい)」との評価の高かった村田烏江や辻聴花などに京劇小屋に案内される。

「支那の芝居の特色は、まず鳴物の騒々しさが想像以上な所にある。殊に武劇――立ち回りの多い芝居になると、何しろ何人かの大の男が、真剣勝負でもしているように舞台の一角を睨んだなり、必死に銅鑼を叩き立てるのだから、到底天声人語じゃない。実際私も慣れない内は、両手で耳を押さえない限り、とても坐ってはいられなかった。が、わが村田烏江君などになると、この鳴物が穏やかな時は物足りない気持ちがするそうである。のみならず芝居の外にいても、この鳴物の音さえ聞けば、何の芝居をやっているか、大抵見当がつくそうである」と綴った後、『あの騒々しい所がよかもんなあ。』――私は君がそう云う度に、一体君は正気かどうか、それさえ怪しいような心もちがした」と。

 京劇に惚れこんだ経験からいえば、「あの騒々しい所がよかもんなあ。」の村田の気持ちは判りすぎるほど判る。だが、同時に日本人としては「一体君は正気かどうか、それさえも怪しい心もちがした」と綴る芥川の気持ちも痛いほどに身に滲みて判る。

 続けて芥川は芝居小屋の様子を、「客席で話をしていようが、子供がわあわあ泣いていようが、格別苦にも何にもならない。これだけは至極便利である。・・・現に私なぞは一幕中、筋だの役者の名まえだの歌の意味だの、いろいろ村田君に教わっていたが、向う三軒両隣りの君子は、一度もうるさそうな顔をしなかった」と、雑然とした観劇風景を意外に楽しんでいる素振りをみせるが、やはり楽屋の汚さには閉口している。

 村田烏江の案内で楽屋を訪れたわけだが、「兎に角其処は舞台の後の、壁が剥げた、蒜臭い、如何にも惨憺たる処」であり、そこを「なりの薄汚い役者たちが、顔だけは例の隈取をした儘、何人もうろうろ歩いている。それが電灯の光の中に、恐るべき埃を浴びながら、往ったり来たりしている様子は、殆ど百鬼夜行の図だった」。

 村田の紹介で美形で有名な旦(おやま)に挨拶するのだが、「私は彼自身の為にも又わが村田烏江の為にも、こんな事は書きたくない。が、これを書かなければ、折角彼を紹介した所が、むざむざ真を逸してしまう。それでは読者に対しても、甚済まない次第である。その為に敢然正筆を使うと、――彼は横を向くが早いか、真紅に銀糸の繍をした、美しい袖を翻して、見事に床の上へ手洟をかんだ」のだ。芥川の呆れ顔が眼に浮かぶようだ。

 ここで青木正児の「韮菜と蒜とは、利己主義にして楽天的な中国人の国民性を最もよく表わせる食物」という呟きが浮かぶ。この一風変わった中国文学者は、「己れこれを食えば香ばしくて旨くてたまらず、己れ食わずして人の食いたる側に居れば鼻もちならず。しかれども人の迷惑を気にしていてはこの美味は享楽し得られず。人より臭い息を吹きかけられても『没法子』(仕方がない)なり。されば人も食い我も食えば『彼此彼此』(お互い様)何の事もなくて済む、これこれを利己的妥協主義とは謂うなり」(『江南春』平凡社 昭和47年)と続ける・・・かくて大いなる困惑と憤怒を残しつつ、芥川の旅は幕を閉じた。《QED》


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