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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 885】 一三・四・初四 ――「演説や散らしで煽動することの容易な人民である」
「支那旅行雑感」(片山潜 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
日本共産党のみならずアメリカ、メキシコの共産党の結成にも大きな役割を果たした片山潜(安政6=1857年~昭和8=1933年)が、「このたび計らずも支那に来た」のは大正14(1925)年。彼がソ連に渡ってから4年後のことだった。その後、片山はコミンテルン常任執行委員会幹部となり、8年後の昭和8(1933)年にモスクワで没している。葬儀には15万人のモスクワ市民が参加しスターリンもが棺を担いだというから、各国政府や政治勢力に対するコミンテルによる非合法破壊活動に、さぞや“貢献”したということだろう。
上海を「素通り」し南京、天津を経由しての北京入りを、片山は「所用あっての旅行であったので用事意外はサッパリ注意を払う暇もなく、僅々一ヶ月の滞在で飄然として外蒙古を通過して現住所のモスコウに帰る」のだが、「僅々一ヶ月の滞在」の間に、如何なる「所用」があったのか。
前年の1923年には、コミンテルンの工作で国民党と共産党による第1次国共合作が行われ、片山が「現住所のモスコウに帰」っていった翌26年には新しく国民党指導者に納まった蔣介石による北伐が開始された。ここで興味深いのが「支那旅行雑感」の末尾の「大正十四年三月七日北京にて」の日付の5日後の1925年3月12日、北京で孫文が「革命未だ成らず」の言葉を遺して没していることだ。ということは、片山は孫文の体調も、その死も、前後の国民党内の権力闘争も“リアル・タイム”で承知していたとも考えられる。
「雑感」とはいえ、コミンテルン幹部の「支那旅行」である。小杉、石井、芥川などのとは全く異なり、当たり前のことだが、労働運動に対する「雑感」となっている。
先ず片山は「支那紡績工場の職工」の生活状態は「豚同然である」と指摘する一方で、「外来資本家が支那労働者を搾取する目的は最低賃金が主眼である」とし、「原料と労力が低廉で而かも綿産物の需要は無限であると云ってよい」から外来資本家にとっては絶好の労働市場だが、「然れども一つの困難は此の安値なる労働をよく使いこなすか否かが問題」となると指摘した。まるで100年後の現在を見通しているかのようにも思える。
「由来支那国民性は経済的、然り利益的観念が強い、否寧ろ之を国民性とも云い得る程、利益には、個人の利益には機敏である」。そこで「労働運動は労働者の経済的地位の改善が主であるから之を見ることの鋭敏なる支那の労働者は団体行動に出て、罷行を断行して其の目的を達する。彼等は利益を通じて終に階級意識を発見し此処に階級闘争を敢えてするに至るのである」。しかも「支那労働者は比較的団結心に富んで居る、首領の命令によく服従する、又演説や散らしで煽動することは容易な人民である」。一方、彼等は「一般人民は然りであるが官尊民卑の感情が些少もない。殊に官憲を恐怖するという観念は更にない」ということだが、そんな性格の労働者によるストライキにおいては、「排外感情が加味することは今後益々増加しても減退することはなかろう」と予測してみせた。
片山は「僕が支那の為めに建策するならば、非常手段に出ずるにあるのみ。非常手段を以って支那の経済的独立及政治的独立を計るには革命に依るの外ない」とし、外国資本による「今日の如き支那イジメ政策は他日支那国民が勃興した時は元利ともに失うに到るべし」と語り、「彼等勃興の勢いは揚子江の流れを堰き止める能わざるが如く非常な勢をもって進みつつある。是僕が支那に来て感じたるありのままの所感である」と結んでいる。
「個人の利益には機敏」で「煽動することは容易な人民」は、「官憲を恐怖するという観念は更にない」うえに「排外感情が加味する」・・・片山の考えは現在にも通じそうだ。《QED》
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