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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 886】 一三・四・初六 ――「ドンチャンの囃子は耳を聾す」
「雲崗から明陵へ」「熱河赤峰遊記」(浜田青陵『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
「日本考古学の父」とも呼ばれ京都帝国大学総長を務めた浜田青陵(明治14=1881年~昭和13=1938年)は、大正15年5月から昭和元(1926)年12月までの半年余の間、「雲岡から明陵へ」の考古学調査の旅を続けた。熱河へ旅行した昭和10(1935)年は、日本軍による華北分離工作の一環である梅津・何応欽協定が結ばれている。
昭和元年からの10年間を振り返ると、蔣介石率いる国民党軍の北伐開始(26)、上海で蔣介石が反共クーデターを発動し、国民党から共産党員排除(27)、満洲事変を機に関東軍満洲制圧(31)、満州国建国(32)、溥儀の満州国皇帝即位(34)と日中関係に関する大事件が続く。この後、後の第二次国共合作に繋がる西安事件が勃発(36)し、37年には盧溝橋事件へと繋がった。
当然のことだが、時代の激流がまるで別世界の出来事であるかのように、浜田らの雲崗石窟寺の遺跡調査は精力的に進められていった。
ある日、調査を終わって「ウマい晩飯に舌鼓を打ち、涼しい夕ぐれ私共は雲崗の村落を逍遥して村の西端に出」た。すると「道路に面して小やかな戯台があって、今日は何かの祝日と見え(道理で石仏寺にも盛装した女が産経していたのである)旅役者が関羽の様な扮装で何かを演じて居り、ドンチャンの囃子は耳を聾するが、北京などの劇場で聞くよりは喧しくない。村の男女老若は其の前に群集して、薄暗がりの灯火むない舞台をかまわず見物している。私達も暫くは其の仲間に入って見物をしていた」という。
浜田は「ドンチャンの囃子は耳を聾するが、北京などの劇場で聞くよりは喧しくない」といっているが、これは彼の大いなる勘違いだ。「北京などの劇場」だろうが、「小やかな戯台」だろうが、同じように「ドンチャンの囃子は耳を聾する」。ただ劇場の場合は屋根や壁で覆われているから音が反響する一方、「小やかな戯台」は青天井で音が拡散してしまう。ただ、それだけのこことである。
農村であれ都会であれ、中国人は無条件で芝居が好きだ。それというのも、殊に娯楽というものが殆どなかったかつての農村では、1年のうちの数日だけ行われる村の土地神(氏神様)などの廟会(えんにち)が、僅かに許された娯楽の機会であり、王朝による集会禁止もなんのその、この日だけは無礼講。近郷近在から老若男女が押し寄せて盛り上がった。
食べ物の屋台が並び、老いも若きも男も女も大手を振って集まり、呑んで食べて、はては博打まで。吃喝嫖賭去聴戯(喰って、呑んで、遊んで、賭けて、芝居に狂う)の凡てを、誰もが存分に愉しんだというわけだ。ところが、浜田らは農民にとっての1年に1回のドンチャン騒ぎ、いわば吃喝嫖賭去聴戯が一緒くたになった絶好機に背を向けてしまう。
浜田は、「それから更に西の方の大道を歩いて武周川の曲がり角まで行って見た。折しも東天には中秋に近い名月が、金輪の如く楊柳の枝の上にかかっている。村芝居の囃子は遠く幽かになって、草間にすだく虫の音が切々と我々の旅愁をそそる」と感傷的に綴っているが、やはり村芝居の輪の中に留まり、「ドンチャンの囃子に耳を聾」されながらも夜っぴて村人の熱狂に和すべきだった。そうすれば中国内陸の農民の心もちに幾分かでも接し、彼らの言動から中国社会の底辺の現実に接することができただろう。だが学術研究以外に関心を払おうとしなかった浜田らが、農民の営みなどに関心を払うはずもなかった。
確かに石窟調査も大事だが、時に無用の用に意義あり。「ドンチャンの囃子に耳」を塞いだ瞬間、日本の伝統的な道学者風中国研究は致命的な欠陥を露呈してしまった。《QED》
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