樋泉克夫教授コラム

【知道中国 888】                      一三・四・十
 
 ――「惶惑と戒厳と混乱との中に在る・・・」(与謝野の上)

 「金州以北の旅」(与謝野晶子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 与謝野晶子(明治11=1878年~昭和17=1942年)は夫の鉄幹らと共に大連を立ち、満鉄本線と支線などを乗り継いで、金州、営口、遼陽、安東、奉天、四平街、洮南、斉斉哈爾、長春、吉林、公主嶺、奉天、大連と回る長旅から東京に戻ったのは、「郊外のアカシアの花は、すべて散り尽くしていた」昭和3(1938)年6月17日の朝だった。

 おそらく旅行出発直前だったと思われるが、同年5月3日に済南事件が、さらには旅の途中、奉天滞在中の6月4日には張作霖爆破事件が発生するなど、与謝野は極めて緊張した時代情況の過中で旅を続けたことになる。そこで先ず、2つの事件に対する与謝野の反応を見ておきたい。

 先ず済南事件だが、済南に住む日本人が国民革命軍と称する中国人兵士が襲撃され、12人が嬲り殺しに遭ったことが発端だ。ここでは、事件前後の経緯に言及することは敢えて避けるが、事件について日本側は権益と居留民防護のための当然の応戦措置だとし、国民革命軍を率い北上中の蔣介石は各地の軍閥を討伐し統一政権を目指す自らの行動に対する妨害だと非難した。 

 事件を機に各地に高まった排日機運を、与謝野は旅の先々で感じた。たとえば営口手前の熊岳城駅では、市街は「キリスト教青年会が排日の宣伝をしているので、私達は万一の危険を警戒して、・・・足早に通過するに止めた」。車を「待っている間に多勢の人だかりがして、その目が洋装の私に注がれるので、済南事件以来の排日の噂を連想して、私は一種の不気味を感じるのであった」という。

 だが満洲も海岸線を遠く離れ内陸部に赴くと排日機運も違ってくる。内蒙古に近い吉林省の洮南では、「此地の排日の情勢が想像ほどに危険が切迫していないことを知った」。だが、やはり用心にこしたことはない。そこで「万一を警戒して在留の婦人達はすべて引き上げ」ている。

 満洲をぐるりと回った与謝野らが、満鉄側の出迎えを受け再び奉天駅に着いたのは張作霖爆破事件前日の6月3日夜だった。

 「駅の楼上にある大和ホテルに泊まった。新聞を見ると大元帥の張作霖がいよいよ北京を退き、今日天津を立って京奉鉄道で奉天へ帰ると云う事である・それで支那側も在留邦人の重な官公人達も張の出迎えに忙しいらしい」。

 「翌朝私は早く起きて東京の子供に送る手紙を書いていると、へんな音が幽かに聞こえた」。顔を洗っていた鉄幹も、その音を聞いている。そこで「二人は唯騒音の多い所へ来たとおもっていた。それから二十分も経たぬ中に、階下の駅の構内で俄に人の往来が騒がしいのを感じたが、猶私達は乗客の込み合うためであろうと思っていた」。だが、「幽かに聞こえた」「へんな音」について、同行者から「意外な変事を告げられた」のだ。

 「満鉄京奉両線の交叉するガアドの下で、京奉線の汽車が四台まで爆破され、張作霖と共に黒竜江省督軍の呉俊陞も殪れ、其の他にも支那官人と婦人との死者が多い様子だと云い、また爆破と同時にガアドの上の満鉄線を守備していた日本兵と京奉線の番をしていた支那兵との間に銃火が交換されたと云うのである。私達は初めて今先のへんな爆音の正体を知ったと共に、厭な或る直感が私達の心を曇らせたので思わず共に眉を顰めた」。

 奉天滞在は短時間だったが、「私達は此の事変について色色の謡言蜚語」を聞いたが、「それは皆日本人として耳にするに忍びないものばかりであった」。緊張の旅は続く。《QED》


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