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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 889】 一三・四・仲二 ――「惶惑と戒厳と混乱との中に在る・・・」(与謝野の中)
「金州以北の旅」(与謝野晶子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
与謝野一行は金州、営口、遼陽、安東、奉天、四平街、洮南、斉斉哈爾、長春、吉林、公主嶺、奉天、大連と回っているが、彼女が夫の鉄幹と共に張作霖爆破の音を耳にしたのは帰路の奉天でのこと。では、往路の奉天はどうだったのか。
「我国の山東出兵、それに続いて生じた済南の事変等に刺激せられて、東三省にも起こりつつある排日の気勢が盛にならぬ間に、内蒙古の一部と北満を観て置きたかったので、奉天の見物を帰途に廻し」、大連発長春行きの列車がやってくるまで奉天の「駅長室で待たせて貰」っている間に、与謝野は北京からの手紙に目を通し、「北京の擾乱がいよいよ私達の北京訪問を許さない事を知」る。「北京の擾乱」で劣勢に立たされた張作霖は、北京を後に本拠の奉天に逃げ込もうというのだろう。かくて奉天も慌しさを増す。
「昨日新しく大連本社から急派されたと云う鉄道部員達のただならぬ動作」がみられる。「駅長室は臨時軍司令部にさえなっている」ほどだ。そこで与謝野は「私はこう云う殺気立った光景を好まないので、室外へ出て汽車を待っていると、またいろいろの厭な事が耳に入」ってくる。「私は日本人としての立場から日支問題を考えると共に、隣人たる支那人の立場からも、また世界人としての私の立場から考えて見ても、顰蹙し、戦慄する事実が目前に迫っているのに無関心でいられなかった。そうして日本を世界から孤立させる結果になりはしないかと想像して、心を暗くしていた」そうだ。
「世界人としての私の立場」という主張には大いに首を傾げたくなるが、さすがに日露戦争に際し、「君死にたまふことなかれ」と「旅順の攻圍軍の中に在る弟を嘆」いた女流歌人だけのことはあるとだけいっておこう。
さらに与謝野は、「丁度南軍が優勢をつづけて、張学良の北軍が関外へ退却せねばならなくなった時である。此時に突風の勢いで某国の軍隊と鉄道部員が明日にも京奉鉄道をその守備と監督の下に置こうとするのだ相である。(併し後で聞くと、此事が林奉天総領事達の必死の力で防止されたのは大幸であった。)」と綴る。
ここでいう「某国」が日本であることは明らかだろう。南軍つまり蔣介石率いる北伐軍が北京に迫り、張作霖・学良父子配下の北軍が浮き足立ち、いよいよ日本軍が全面に出ようとしている緊迫した情況が見て取れる。
かくて与謝野は「良人と私とは、今現に奉天の日本軍から支那へ働き掛ける或る重大事のために、一人の日本兵もいない内蒙古へ行って、第二の済南事変が私達の上に激発されるのではないかと危ぶまれた」と記す。
奉天駅を発った一行は北上を続け、5月25日の「朝の七時の汽車で四平街を立って、いよいよ内蒙古の奥地の一部を観ることとなった」わけだが、「昨日まで駅員も監視兵も巡査も一切が日本人であった汽車の乗り心地の平安であったのに比べて、私達の四囲の光景は急変し、知らぬ他人の世界へ追い入れられたような不安と驚奇とを覚えるのであった」。
だが案ずるよりなんとやら、である。内蒙古では平穏な旅が続いた。そこで、次のような感興を覚えたのだろう。
「沙ばかりの地平線に落ちようとしている日の色の凄壮な大景の河の彼方に望んで、李白のような支那の大詩人の万古に消し難い寂寞哀愁の思想が、甚だ根底の深いものである事を想わずにはいられなかった。支那文学の真味は、こういう朔北の風景を目にしない江戸時代の日本の漢文学者などには解っていなかったという気がするのであった」。《QED》
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