樋泉克夫教授コラム

【知道中国 892】                    一三・四・仲八 

 ――「かくも広い土地をよくもこう万遍なく開墾したものだ」(長谷川の上)

 「哈爾賓直行」(長谷川如是閑 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 明治・大正・昭和の三代を“筆一本”のジャーナリストとして生きた長谷川如是閑(明治8=1875年~昭和44=1969年)がハルピンを訪れたのは、昭和3(1928)年秋。張作霖爆死から4ヶ月ほどが過ぎていた。

 「哈爾賓直行」は、「WRK兄」に宛てた手紙の形式で綴られている。
 「大連から汽車が北上するに従って、車室からの眼界は次第に広濶となって、ついに渺茫たる平野が展開されますが、それが悉く見事な耕地で、何処まで行っても、満州の果てまで行っても同じです」と説き起こし、「実に、漢民族なるものは、アフリカに於ける大蝗群が、その通過する所を草の色さえ止めない荒野にするのと正反対に、漢民族の通過する所は、如何なる荒野も忽ちにして田園となり都会となります。

 蒙古の曠野に鉄道が敷かれると、まだ開業のしていないうちから、危険を保障されない建築列車に便乗を求めて、柏餅のような布団を背負った無数の支那人が角砂糖に蟻がついたように、その列車にシガミついて、茫漠たる曠野に侵入するのは、兄も親しく目撃された通りです。全く根だけの棲家に過ぎないその曠野は、これら支那人に侵入されると、忽ちにして豊穣なる高粱畑、大豆畑と化し、それらの集散する所に忽ち繁華な都会が現れます」と、移動・移住を繰り返しながら自らの生存空間を拡大してきた漢民族の持つ生まれながらの性質に言及する。

 「茫漠たる曠野に侵入」し、忽ちにして「悉く見事な耕地」に変え「繁華な都会」を出現させる過程こそ、大室幹夫が『劇場都市』(ちくま学芸文庫 1994年)で説く「シナ化sinicization」ということになろう。

 大室が描き出した「歴史的な図式」に拠れば、「シナ化は黄河流域のいわゆる中原地方から南および南西、南東の方向へ向って展開され」、「シナ化とはこれら南方地域の漢-シナ人の植民地化colonizationの過程にほかならず」、「それは具体的には城壁都市の建設によって表出され」、それゆえに「シナ化とは端的に都市化urbanizationである」ということになるわけだが、長谷川が歩いた満蒙は「黄河流域のいわゆる中原地方から南および南西、南東の方向」に当らない。にもかかわらず、「シナ化sinicization」という現象は起こっていた。

 怒涛のような漢族の流れは、やはり全方位だ。
「最近には、満蒙一体に流れ込む――文字通り流れ込むというより外適当な表現はありません――支那人の数は一年百万にも上るそうです」と、「シナ化sinicization」の凄まじい実態を綴る。(「満蒙一体」は「満蒙一帯」では?)

 ではどこまでも続く耕地を、彼らはどうやって耕すのか。長谷川は「高粱畑を耕す農夫等は、例の蒲団と大きな煎餅のような烙餅とを携えて、あの高粱畑に、昼は耕して夜は寝てどこまでも行くのだから、あの曠野がベルリン、パリまで続いていても少しも閉口はしないわけだよ」との「支那通」の話を紹介した後で、「成程、夜になると家に帰ることにして居る日本人の量見では、満州の経営はとても覚束ないことでしょうが、漢民族はかくの如くにして、満州一帯に、中央支那の文明を拡大させて行きつつあります」と記す。

 さらに「この満蒙の大地域は、人類中の蜂や蟻にも比ぶべき、恐るべき労働能力と、ユデア人にも増した恐るべき商業能力とをもった支那民族の自由自在に活躍し得る天地たらんとし」ながら、「ヨーロッパのあぶれもの」によって「アメリカがあれだけのものになったのを見ると、ヨーロッパ人に比べれば、労働そのもの、商業そのもののような支那人によって、この満蒙がどんなものになるだろうかを考えると、私は全く毛穴のうずくほど興味を感じます」と、満蒙の将来が一筋縄ではいかないことを危惧するのであった。《QED》



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