樋泉克夫教授コラム

 【知道中国 894】                    一三・四・念二
 
 ――「支那人の矛盾に対する無頓着が現れている」(安倍の上)

 「瞥見の支那」他(安倍能成 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 夏目漱石の弟子、岩波書店創業者の岩波茂雄の親友、大正リベラルな岩波文化人サロンの中核であって、第一高等学校校長、貴族院勅撰議員、文部大臣、学習院院長などを歴任。戦後は雑誌『心』などに拠って自由主義的保守主義の立場に立った安倍能成(明治16=1883年~昭和41=1966年)が済南を訪れたのは、昭和3(1928)年3月16日。済南事件勃発の1ヵ月半ほど前のことだった。

 「前々から支那を見たいと願っていた」安倍は、北京在住の友人の「自分が居る内に一度支那を見に来ないか」との誘いを受け、天津経由で北京へ。10日ほど友人宅で世話になった後、20日程を掛けて天津、済南、青島を回っている。

 済南到着翌日の3月17日、「蔣介石の南軍が既に四十里向うの徐州まで来て居るということである。済南の物情騒然という程でもないが」、思い切って遠出の予定を中止し、市内を一瞥しただけで、「私はかくして誰をも尋ねず、誰にも会わず、其日十二時の汽車で青島に向かっ」た。「併し在留の邦人は割合に落着いて居た」。だが「この旅から帰って落着くと間もなく、北京は益々不安になり済南には悲しむべき流血の惨事が突発し、張作霖は非命に倒れた」のである。

 済南事件が5月3日で、張作霖爆死が6月4日。どうやら安倍は緊張極まりない時期に、中国に滞在していたことになる。さて、これを僥倖というべきだろうか。

 なぜ「東三省の専制君主たる張作霖は、のこのことその安全な巣を出て北京へやって来た」のか。これでは殺されるために、わざわざ北京まで出張ったようなものではないか。東三省、つまり満州の「専制君主」のままでいればよかったものを――こう問を発した安倍は、「(天下)一に定まらん」という孟子の説を引いて、「支那はああいう大国であり、南と北とは地勢からも人情からも言語からも著しく異なって居る」が、中国全体を「一」にすることは「所謂軍閥的政治家でも所謂民衆的政治家でもその最後の標的であるらしい。支那程の大国でも分立では落着かず、何か知らぬが一にならずには居られぬ必然性があるらしい」と感じたという。

 国民党、共産党、軍閥、加えてコミンテルンなどの内外政治勢力が「天下を一」にしようと画策を続け、互いに裏切り裏切られながら戦乱は止まず、社会は不安定なままだ。だが街頭に出てみると「如何にも都会として北京の色彩の濃厚であり」、人々が忍苦な生活を我慢しているようにも思えない。「けれどもこの辺の大道商人は、決してアンステーブな平和がいつ破れて兵乱と掠奪が始まるか知れぬということを忘れない」と見た。

 だから、「生きる為にはこういう(兵乱や掠奪から身を守る)技術にも熟達せねばならない支那の民衆は実に同情に価するが、併し踏みにじられても轍の下にしかれても直ぐ、その後から後から芽を出す雑草のように、この不安と混乱との中に平気で――少なくとも平気らしく――生きてゆく支那人の生活力も亦、驚異に値するといわねばならない」とし、さらに、このように「生きてゆく支那人の生活力」に驚嘆しながらも、安倍は「真に人を殺すを嗜まざる、真に民衆を愛する力強い政治家が出たならば、恐らくは天下は一になるであろう。少なくともかかる政治家によって天下の一にせられんことは、支那民衆の痛切なる希望だということは確かであろう」と思い至るのであった。

 こんな気持ちを抱きながら、安倍は北京の街を、そして歴代王朝の遺した豪壮な建築を「瞥見」し、「日本人よりも一層複雑であ」る彼らの振る舞いに考察を加えていく。《QED》


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