樋泉克夫教授コラム

【知道中国 895】                     一三・四・念四
 
 ――「支那人の矛盾に対する無頓着が現れている」(安倍の中)

 「瞥見の支那」他(安倍能成 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 北京の街に出た安倍は開口一番に、「初めて北京を見て先ず感じたことは、我々の親しんできた世界とは全然違った世界へ来たというエキゾチックな感じであった」と率直な感想を漏らす。だが街並みに目が慣れてくるに従って、「兎に角偉大な都であ」り、「偉大な人間的作品である」北京に、何やら言い知れぬ違和感を覚えはじめる。

 北京は「余りにも偉大であり、貴重である」。「けれども人から聞いた所によっても、支那人は一向建築の保存には心を用いぬらしい。或人は旧いものを保存することをしないのを支那人の性質若しくは習慣そのものに帰して居た。私にはそれは断定し難い」とした安倍は、「断定し難い」わけを考えてみる。

 「旧い建物の保存せられないのは、一面からはこんな偉大な建築も唯デスポットの恣意によって作られ、そこに民衆の欲望が基礎となって居ないことに原因するとも考えられる。即ちデスポットがその暴力によって無理に作ったものは、デスポットが居なくなれば直ぐにその支持を失ってしまう。亦そのデスポットの意志そのものに民衆的要素が少なく、従ってその作品も民衆の生活と交渉する所が少ないということ、更に亦兵乱の不安に悩まされる民衆にはこんな作品を味わう興味も余裕もないこと、その外色々の原因が考えられる」が、やはり中国を「一」にして新しいデスポット(despot=独裁者)に伸し上がろうと蠢き回る勢力が繰り広げる抗争が、旧い建物の保存を阻んでいる大きな理由だろうとも考えた。

 権力さえ握ってしまえば、どんなに豪壮な建物だって造れるじゃないか。この麻の如くに乱れに乱れた中国を統一した俺サマこそが唯一至高の絶対的独裁者だ。ならばこそ新しい「デスポットの恣意によって」、新しい建物が造られる、という仕組みになりそうだ。こう考えれば、現在の北京には天安門広場周辺、北京オリンピック会場跡地、空港などなど、毛沢東以来の次々に現れる新しい「デスポットの恣意」が存分に感じられる。

 安倍は「デスポットの恣意によって作られ」た「偉大な建築」から、そこに日本の建築に配されている自然の要素が「殆どない」ことに気づいた。

 「支那には西洋に於けるとおなじように・・・自然を交えない純人間の世界を作り上げた建築が多い。そこに兎に角人間的欲望が日本の建築より濃厚に現れて居る」と考える。そして、西太后の権勢華やかなりし頃の離宮であった万寿山を例に引き、そこに見られる意匠は「寧ろ醜な位であるが、それが激しい人間的強行の産物であることは直に首肯せられる。我々はその極彩色に色どった湖辺の廊を歩いたり、宮殿を覗い、階段を登りつつ、西太后がそこに試みたであろう放縦な神をも人をも恐れない楽欲の行為を想像したりしたが、兎にも角にもこの広大な離宮の中には、極楽を地上に実現しようという意図が歴々を覗い得られる」と看做した後、こう結論づける。

 「自然と合一しようとするのではない。人間楽欲の世界を無制限に堅固に作ろうとする欲求である。それは結局はかないものではある。併しそこに兎も角も旺盛な人間的欲望の記念碑は認められる」と。

 いわば「旺盛な人間的欲望の記念碑」が詰まったような「北京はデスポットの都であり、支那は専制政治家の舞台としては恰好な国であった」わけだ。そこで安倍は、「然らば支那の民衆は無力であるか。それは一応はたしかにその様である。けれどもデスポットが如何に歌っても民衆が踊らなければ何事も出来るはずがない」と疑問を持つに到った。《QED》


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