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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 896】 一三・四・念六
――「支那人の矛盾に対する無頓着が現れている」(安倍の下)
「瞥見の支那」他(安倍能成 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
「早い話が唯北京の宮殿だけを見ても、如何にデスポットの支配力が強いとした所が、全然無力な民衆が果たしてあれだけ大きな建築を造りうるであろうか」と、安倍は考察の対象を、この国のデスポットからと民衆へと転じた。
「支那の民衆は意識的に自分の力を操縦し得ないであろう。・・・唯彼等自身の力を彼等自身によって統一し集合することが出来ない。それが出来るにしても狭い範囲に限られて居る。彼等は彼等の力を自覚しない、けれども彼等の知って居るよりも遥かに強いのだ」。であればこそ「デスポットの下にも民衆の力は存外無視することは出来ない」。
安倍の目には、彼ら「生活力の旺盛の現れは、一方には勤労力の強大と他方には享楽欲の熾烈若しくは執拗だろう」と映った。続けて「私は満州で聞いた『支那人は目的がはっきりして居る、それは金を儲けるということだ。日本人はそれがぐらついて居るから到底かなわない』という話を面白く思った」とし、日本人の専門だった馬車屋、豆腐屋、畳屋などの商売が結局は「支那人のものになってしまったそうである」と、大連で聞き込んだ例を示し、彼ら「支那人の目的ははっきり金にある、利益の為には命も惜しまない」からだと、彼らの生活の目的を挙げる。
さらに安倍は、彼らを突き動かしているのは金だけではないだろうとも考えてみた。
「支那人の生活の目的は金にシンボライズされては居るが、それは実は支那人が勤労そのものを愛することの標徴ではないか。そうして勤労を愛することは畢竟じっとして居られない生活力の現れではないか。金の上にも金とそれを追求して止まないのは、実に本能的に強い其の生活力に引きまわされて居るのではないか。単に金を愛するということだけでは人間そう一所懸命になる得るものであろうか」と、「金にシンボライズされては居る」「支那人の生活の目的」に些かの“理解と同情”を示している。
だが事実として、「支那人のこの原始的本能的な根強い勤労力、やがて生活力は満州を征服しようとして居る。そうして朝鮮人は疲弊し、日本人は不景気をこぼして居る朝鮮にも、着々として而も確実に根を下ろしつつある」。つまり満州、朝鮮に日本人が築きあげた「文明的経済組織の中に」おいて、とどのつまりは中国人による「原始的な勤労の勝利」がみられると、安倍は語る。
次に安倍は「支那人は優れた生活術の体得者」であると見做し、それは「先ず食物」に現われている、とする。たとえば「北京の有名な料理屋でも四五度御馳走になったが、料理は非常に旨く、栄養は充分なような気がした」。「唯併し部屋はやっぱり汚い、食器も立派ではない、給仕人も殺風景なものである」。「けれども兎に角支那の料理屋が旨い身になるものを食わすという当面の目的に直進して、日本の料理屋のように付帯条件をやかましくいわない、という結論は下してもよさそうである」とした。
安倍は「二十日ばかりの旅行に疲の少なかったことを支那料理のせいではないかと思う位」に、食物にみられる「優れた生活術」に感心しきりだが、「しかし兎も角も支那の町には豚の香がきついと共に、鳥の声も多いこと」に気づく。「そうして支那人は豚肉を食って鳴禽を楽しむものだ、と独語してひそかに得意」になり、一歩進んで「支那人の自然に対する態度」に思いを致すのだが、優れた山水画の描く「汎神論的心持」、「自然と人間とを一如にしたような境地」、「その底に流れる雄渾な暢達な気力」が、じつは「豚を食って悠然鳴禽を聴く生活と同じ種類のものではないか」と思ようになるのであった。《QED》
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