樋泉克夫教授コラム

【知道中国 898】                      一三・四・三〇

 ――「支那人の矛盾に対する無頓着が現れている」(安倍の下々々)

 「ハルピン散策記」(安倍能成 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 安倍がハルピンを散策した昭和4(1929)年、日本では7月に濱口雄幸内閣が成立し、11月には海軍軍縮会議に向けて若槻代表団が出発している。中国では蔣介石の政権基盤が定まらず、軍閥は合従連衡を繰り返し、漢口、唐山、上海、青島などで労働者のストが頻発し、陝西と甘粛の両省で干害による飢饉が発生した。

 安倍は、「今八万のロシア人と二十数万の支那人と三千余の日本人を包容して、国と国の生存欲が頭をかち合わす折衝点であり、現世の逸楽と苦痛とをめちゃくちゃにつき交ぜた巷であるこの都会が、実にこの広大無辺の嚝野に唯中にあるという感じ、この感じは我々が本国では経験し得ないところのものである」と、「現世の逸楽と苦痛」に日々を送る中で国家と国家、民族と民族とのむき出しの欲望がぶつかり合っているハルピンの姿を描く。

 次いで「西洋風の家屋から成る支那町」の傅家甸を歩き、「この混乱と猥雑とを考慮せずに、一種独特の色彩感覚を造り上げる支那町の街上には、その喧しい噪音の中に期せずしてまた一種の支那式情調を形造っている」と印象を綴った後、その町にみられる「粗末な建築ではないが優れた建築でもない」建造物に対し、「支那側がこうして幾十万の金を費やして文廟や仏寺を建てる趣旨はどこにあるのか」と疑問を呈す。

 それというのも、「同じ吉林省内でも主都の吉林の宏大な孔子廟の屋根には草が茫々と生えて、その境内は瓜や茄子又は大根の畑となったりしている」からだ。かくして「一方にあるものは荒廃に任せ、他方にない金をしぼって新たに鉅万の工事を起す。ここにも支那人の矛盾に対する無頓着が現れている」と結論づけた。

 鄧小平による社会主義市場経済、7人の共産党最高幹部という名の執行役員による中華人民公司経営、毛沢東を否定しながら天安門に巨大な毛沢東像を掲げ、「和諧社会」を政策の大カンバンに掲げながら一向に社会の和諧(融和)が実現できなかった胡錦濤時代(02年~12年)、共産党幹部による地上げなど――「支那人の矛盾に対する無頓着」とは、けだし名言であり至言だろう。

 街並み、そこで生活する人々を仔細に観察するに従って、安倍の眼が捉えるのは「日に日に急激な勢いで支那化されゆくハルピン」だった。

 「支那人の富豪や大官らしいものは、如何にも搾取者らしく肥え太って、ともかくも立派である。若い紳士の中には瀟洒な服装の男も居るが、しかしその顔は如何にも意識的に気取っている」。「ロシア名の市街は皆支那名に改められた。小旗を掲げた立派な磨き立ての自動車にふんぞり返っているものは多くは支那人の官吏であり、レストランでもカヴァレーでも支那人は大威張りである」。「方々に支那人の宏大な百貨店が新たに作られ、また作られんとし、街頭を往来するものは大方支那人であり、そこに聞かれる詞は殆ど支那語のみである」
かくて「イラショナルな支那のあらゆる現象の中に、ここにもまた大連や奉天その他の到るところと同じく、支那商人はその勤勉と倹約とによって極めてラショナルな利勝を博しつつあるように見える」と総括した後、「思うにこの勢いが進めば、今後十年を出ずして、ハルピンは支那人の市街と成り了するであろう」と結論づけながら、ある日本人の「ハルピンの町が支那人の手によって日一日と汚くなりつつある」との慨嘆を引いて、「ロシア人の如くその清潔と保存に留意するか否かは疑問である」と、中国人の振舞いを疑問視する。

 安倍のハルピン散策から3年後の昭和7(1932)年春、満州国が成立した。《QED》


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