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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 899】 一三・五・初二
――「得体の知れぬ不安を感ぜずにはいられない・・・」
「福州の秋」(前嶋信次 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
日本のイスラム学の開拓者で知られる前嶋信次(明治36=1903年~昭和58=83年)が乗ったランチは、昭和4(1929年)11月初め、小雨降る基隆港の岸壁を離れ時化の港外に出た。荒波のなかを大型船の福建丸に乗り換え、「おそろしい濤」の台湾海峡を渡って福建省の省都・福州へ。前嶋、26歳の時であった。
「甲板を埋めるシナ服の群集に交り、角帯に前だれ姿、ひょうひょうとして鉈豆煙管で刻み煙草をふかしている五十年配の男が目についた。これはシナの奥地行を朝の散歩くらいにしか考えず、老獪なそこの商人たちと笑いあったり、手を握ったり一歩も譲らずかけ引きの技をつくすシナ海の猛者の一人、骨董商人であった」。この「シナ海の猛者」を前嶋は、「このような型の日本人は昔からこの海を青畳の如く心得て気軽に往来してきたのである」と捉え、「これこそ、そのかみ倭寇の子孫なのだ。土匪も馬賊も隣の友人の如く心得て四百余州をまたにかけてきた彼等が、長い間に果たした仕事は以外に大きいものであろう」と高く評価している。
「彼らの顔が有力なパスポートになっていて、大手をふって危険地域を旅行できる」そうだ。前嶋の説く「このような型の日本人」もまた、敗戦が消し去ったということか。
前嶋は福州を歩く。「そのころ福州の町にも排日の機運はつたわっていたが、それは大学生とか、知識階級の一部などだけで、先祖代々この閑静な大都会の一角に住みつづけてきた素朴な市民は、実に鷹揚で、のんびりとし、少しもそのような騒がしさは見せなかった」。「排日などというとげとげしさは更にみられなかった」という。
「狐のような目つきをした小さな骨董売りの中国人」は、国宝級の名画と称するものを「三百円とふきかけて十円にまけたり、福州名物の木彫人形を二十円の言い値で結局一円五十銭にしたり、まことにユーモラスな商売をする」。そこで前嶋が国宝級の名画をニセモノだろうと問うと、「『あなたそんなこと聞くだけバカあるよ』と一蹴された」。また「びっくりするほど珍しくまた美味だった」料理屋だが、「一足奥に入って、その便所に入ると、汚穢さは吐気を催させる程のものだった」り・・・やはり「色々目先は変わって面白いけれども、得体の知れぬ不安を感ぜずにはいられない所に、この国の無気味さ」を実感する。
ところで前嶋は、福州で思わぬ人物に出会うことになる。 「或日、私は台湾の林とよばれた林熊祥氏の邸宅で、六つか七つの可愛い男の子が遊んでいるのを見た」。この子が「清末の思想家として有名な厳復氏の孫」。前嶋は「またある日、同じ家の客間で、美しい少女から菓子を送られている」のである。
林熊祥は日本時代の台湾を代表する資産家一族である板橋林一族の中核であり、日本留学時には昭和天皇の同級生だったとか。日本敗戦直後、林は辜振甫(1917年~05年)らと共に「台湾自治委員会」を設立し台湾の独立を求めた。その数年後、国共内戦に破れ台湾に逃れ込んだ蔣介石政権の手で、辜らと共に「日本投降前、日本帝国主義植民地政府少壮軍人・官吏らと台湾独立を画策した」との理由から逮捕され獄舎生活を余儀なくされた。
出獄後の辜と結ばれる林の姪こそ、初代北京大学学長も務めた厳復の孫娘の厳倬雲である。ということは、後に台湾経済をリードしつつ豊富な国際人脈を背景に台湾の国際的地位を確保するために奔走する一方で、李登輝政権時代には「民間人」という立場から北京との間で中台両岸交渉を積極果敢に進めた辜振甫の未亡人ということになるのだが・・・。
さて、「美しい少女」は厳倬雲だったのか。日・台・中が複雑微妙に絡む19世紀末から現在までを貫く歴史、有名・無名の人々が織り成す物語を、「福州の秋」が語る。《QED》
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