樋泉克夫教授コラム

【知道中国 901】                      一三・五・初六

 ――「いかに何でも不愉快になって了う」(里見の中)

 『満支一見』(里見弴 春陽堂 昭和8年)

 ハルピンでは、「露支関係にどういう事情からか詳しくは訊いてみなかったけれど、兎に角暗雲が漲り戒厳令が敷かれ」ていて、残念なことに「歓楽境」を愉しめない。だが「汽車に乗り合わせた新聞記者の一行からは、夜出歩けないのはまだいいとして、昼間でも電車のなかなどでは、日本人とみると肘で小突いたりして、とても今の哈爾賓は不愉快です、不愉快どころか危険です、とまでおどかされたものだ」と綴る。

 そういえば前年の昭和3年に満蒙を旅行した与謝野晶子は、「金州以北の記」に「昨日から此の門前を支那人の云って通る言葉は、我我日本人に対して容易ならざる恐ろしい事を言っている。久しく此の地にいる私達にとって、こんなに支那人の感情の急激に悪化した事は例がありません」と語る奉天在住日本人を紹介しながら、「支那の軍閥に威張られている哈爾賓」と記していた。

 里見や与謝野が聞いた話、さらには与謝野がハルピンに抱いた印象から判断して、どうやら満洲とはいうものの、ハルピンや奉天などの都市部では、昭和3,4年当時、日本人は肩身の狭い思いをして暮らしていたことになる。日・漢・朝・満・蒙の5つの民族の「五族協和」を建国理念とした満洲国が生まれたのは昭和7(1932)年の2月だから、里見の旅行の2年2ヶ月ほどしか経っていないことになる。2年余りの短期間に、ハルピンは「不愉快どころか危険」な街から五族協和の理想郷に変貌したのか。

 ここで思い出されるのが「漂泊の詩人」と呼ばれた金子光晴が体験した「排日の憂目」から引き出した結論だろう。

 「海外を歩いているながい間に僕は、随分方々で排日の憂目にあった。支那内地は勿論、南洋でも、ロンドンでも、巴里や、アントワープ、アムステルダムまで排日にぶつかっているが、そもそも最初、一九一九年シンガポールで思掛けない排日態度に出られた時だけは忘れられな」い金子は、「一体に支那人は群衆心理に支配され易い、興奮性な国民で、好条件な状態にある時はおかしいほどに元気になるが、失意となると一朝にしてペシャンコになって、それがみていると可笑しい位である」(昭和12年10月『文藝春秋』)との思いを抱いた。

 金子が説くところに従うなら、おそらく里見が歩いた頃のハルピンでは「支那人は群衆心理に支配され」、「日本人とみると肘で小突いたりして」いたのだろう。だが満洲国が誕生すると、「一朝にしてペシャンコになって」しまったに違いない。だが面従腹背の根本は忘れることはなかっただろう。

 里見の旅行に戻る。奉天でのことだ。「ホテルのグリルで、間食いに、生牡蠣をレモンの絞り汁で食う。どこで獲れるものか、大へん味がいい」。だが同行者の1人は「今は云わないが、或る話を聞いていたから、自分は絶対に牡蠣だけは食わないことにしている」と。すると志賀直哉が「それを云え、と迫る」。牡蠣をぺロリと平らげた後、「志賀が、自分で、万が一にもそんなことはあるまいと思えばこそ、――つまり最悪の場合を想像して、糞でもかけるというのか、と云い放った」。

 ところが、その「志賀のあてずっぽうが、ぴたりと図星に来た」のだ。かくて「潔癖家の志賀にとっては、これはやりきれなかったに違いない。以来、ぶつりともその牡蠣のことは云わなくなって了った。――知っていても、私はうまかったから食ったのだが」。

 やはり現地で、本場の中国料理を味わうためには、それ相応の覚悟が必要・・・だね。《QED》


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