樋泉克夫教授コラム

【知道中国 904】                      一三・五・仲二

 ――「いかになんでも不愉快になって了う」(里見の下々)

 『満支一見』(里見弴 春陽堂 昭和8年)

 とにもかくにも客車の一角が瞬く間に厨房となり、汚さなんぞはなんのその。簡易厨房製の料理は「そこらの支那料理屋で食わせるそれよりも、よっぽどうまそうにみえたくらい」だった。料理人の「そのやり方の簡にして要を得ていることと云ったら、有繋は何千年来、改朝、苛斂、戦禍の間に、骨の髄まで滲み込んで了った簡易生活法体得の国民と肯かれた。――この台所の広さ、竈を含めて半畳に足りず、而もそのうえに、酒を燗し、茶を淹れ、絞り手拭まで雋るのだ。感服せざるを得ないではないか」。

 「有繋」には「さすが」とルビが振ってあるが、有繋の里見も、中国の料理人の練達のウデの冴には「感服せざるを得な」かったわけだ。

 ところで料理人のウデもさることながら、その料理人の練達のウデの冴を表現する里見の筆捌きも、これまた練達としかいいようのないほどの冴を見せる。そこで暫し、里見の筆捌きを堪能してみたい。

 「一番驚いたのが俎板で、直径一尺、厚み二三寸の、電信柱の根ッこでも挽ッ切って来たような古材木なのだが、そのい、埃と脂とで鼠色に盛りあがっている表面へ、直角に包丁をあてがって、ガリガリと引ッ掻く度に、垢のようなものが、ぼろぼろとこすれ落ちる。そのあと、真黒に汚れた布巾ででも、一応は拭くかと思うと、包丁の峰を返して、その垢のようなものを、すッ、すッと、四方に掃き飛ばしただけで、すぐそこへ、べたっと豚肉を置いた時には有繋の私も唸らざるを得なかった。葱も無論洗わずに切る。フライ・パンのやや深めに、尻の丸くなった鉄鍋に油を炒って置いて、飯をたたい込み、包丁の先でちょいちょいとつッ突きこわしたり、掻きまぜたりした挙句、二三調子をつけては、ひょーい、ひょーいと擲りあげ、うけとめてはまた擲りあげる手際の鮮やかさ、――むかつきそうな油の臭も忘れて、全くこれには見惚れて了った」

 旅も終わりに近づき、北京の名勝古跡見物に日を送るものの、列車の“促成厨房”ほどには関心を示さない。いや、それどころか毒づく。

 たとえば紫禁城内である。宮殿から宮殿への通路は「高い煉瓦塀で幾廊にも仕切られ、その間の小路が、狭いのになると一間もあるかなしかで、ちょっと陋巷といった親しみが感じられる代わり、二度や三度行ったくらいでは、必ず迷子になるだろうと思われるようなプランの複雑さだ」と評した後、「一体、支那の建築は、へんな意地わるさで、迷宮じみるまでに、わざわざ道をわかりにくくしてあるのが多いようだ」と考え、とどのつまり「不得要領や韜晦に秀でた支那人の特徴を物語るものとはみられないだろうか」と考えた。

 さらには「一体、支那の宮殿など、華麗を主とする建物の、軒裏、鴨居周りその他を、やたら胡粉絵の具で塗りたててあるのは、遠目にはまだしも、近づくと、綺麗には違いないが、俗悪な感じの方が強くなって、どうも賛成しかねる」とした後、清朝盛時の超上流社会の日々を華麗に克明に綴った『紅楼夢』を引いて、「紅楼夢を描いた壁画なども、明治時代の風呂や趣味だ」と切り捨てた。

 長かった「満支一見」の旅も終わる。
 「ややほっとした気持ち」で乗船した里見の後から、「やがて、支那大官の如くに悠然と、志賀も乗り込んでくる」。一行を乗せた船は、「綺麗な日本」に戻っていった。《QED》



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