樋泉克夫教授コラム

【知道中国 905】                     一三・五・仲四

 ――「こんなに広い支那に戦争がないのが不思議じゃありませんか!」(林の上)

 「秋の杭州と蘇州」(林芙美子 春陽堂 昭和8年)

 『放浪記』で知られた林芙美子(明治36=1903年~昭和26=1951年)はハルピン、長春、奉天、撫順、大連などを歩いた後、昭和5(1930)年10月、杭州に至る。

 「満州で強いものは、人間よりも自然だ。どこへ行っても果てしない空と原野、ところどころの緑、鉄道の沿線には、今こうりゃんが茶色に実のっている。何町おきかに日本の守備兵が一人一人列車の車窓から見えたが、内地の波止場でよく見た、満州行きの兵隊が、こんな茫漠と広い原野を背に鉄道を守っている姿はまことに胸が熱くなる」と、鉄道守備の日本兵に胸を熱くさせた彼女だったが、杭州で出くした「銅鑼の混じったマーチに合わして、地下足袋をはいた(中国の)兵隊さん」「のふそろいな足並みには、これは真に天真な子供の御伽噺だ」と、彼我の兵士の資質の差に半ば呆れた。

 そこで「貴方のお国では、いつも戦争をしていますが、いったい群集はどう考えているのでしょう」と、知り合った両替商に尋ねる。すると、こんな返事が返ってくる。

 「結局はどうだっていいじゃありませんか、利権者のかけひきなんだから、別に北軍が勝っても南軍が勝っても、よし又中立が勝位についても、我々の生命財産なんて守ってはくれませんし、どっちが勝っても、平和になってくれさえすればいいじゃありませんか、外国は興味を持っているかもしれませんが、私達はいたいともかゆいとも思っちゃいませんよ。あんなものは台所の火で、こんなに広い支那に戦争がないのが不思議じゃありませんか!」

 広東から上海を経て北上し各地の軍閥を破って統一を目指す蔣介石率いる「南軍」が勝利しようが、軍閥たちの「北軍」が居座り続けようが、とどのつまりは「利権者のかけひき」でしかなく、「我々の生命財産なんて守ってはくれません」。「こんなに広い支那に戦争」があって当たり前というわけだ。「こんなに広い支那」だ、何があったって驚くことはない。

 これを聞いた林は、杭州への車中で中国人の女性が英語で会話していたことを思い出し、「同じ国でありながら、言葉が通じないなんて! 何の不思議さもなく、英語で話しあっている支那智女を見て、私は支那と云う国のでかでかと広いのに愕いてしまった」と綴る。

 とはいうものの、杭州の「賑やかな街の辻々には、『同志仍順努力』とか、『打倒帝国主義』『共産党是民衆的敵』とすさまじいのや、『国民革命的目的在求実現三民主義』なる民主、民権、民族の三民主義のスローガンが、どんな街裏に行っても、晴天白日旗と共にヒラヒラ流れていた」。蔣介石率いる国民党の中華民国を示す青天白日旗が「ヒラヒラ流れていた」ということは、取り敢えずは蔣介石軍に恭順の意を示しておこうという杭州の人々の魂胆の現われだろう。

 ところで晴天白日旗について、林は興味深い話を綴っている。

 「あの晴天白日旗ですが、あさぎに白で向日草のような模様が、とてもスマートなので、或人のハルピンで尋ねたところ、/『あああれは京都に染めさせてやって、図案をきめたのだそうです。日本人が、あの晴天白日旗の創案者ですよ。』」と記した後、「これは一寸信じかねる話だ」とした。

 “公式的史実”では孫文考案ということになっているので、林ならずとも「これは一寸信じかねる話だ」。この話をハルピンで林に聞かせた人物は日本人だったと思われるが、「日本人が、あの晴天白日旗の創案者」であるという“都市伝説”の類がまことしやかに生まれるところに、日本と中国の曰く云い難い因縁を感じないわけにはいかないようだ。《QED》


Copyright (C) 2012 Geibundo All Rights Reserved