樋泉克夫教授コラム

【知道中国 908】                      一三・五・二十

 ――「営々と利に敏く立ち廻り・・・」(市川の中)

 「紫禁城と天壇」他(市川三喜・晴子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 市川は小学校に次いで大学を参観する。

 先ず「米国から来る義和団の償金で作った学校で」、「生徒の学力も第一と云われている」精華大学だが、北京の西郊外に在るだけに、北京の城門が「午後十時に閉まると、土匪が跳梁する城外に孤島の如くとり残されるので、日本留学生は一学期で居たたまれなくなり、評判がわるい」ということだ。

 北京に限らず、往時の中国における伝統的な都市は土匪など外敵の襲来に備え高い城壁で守られ、城壁の内部と外部との往来は城門のみ。朝に城門を開いて街を開放し、夜には城門を閉じて街を防備した。つまり北京の街中になかっただけに、精華大学は「土匪が跳梁する城外に孤島の如くとり残される」ことなるわけだ。ならば「日本留学生は一学期で居たたまれなくなり、評判がわるい」のも当たり前のことではないか。
では城壁の内側に在ればマトモな教育が施されたかというと、そうでもなさそうだ。たとえば市内にある北京大学は、「陰鬱な白壁の埃臭い校舎で、中央政府から金が来ず、先生達皆半個年程前の分の月給を受取っているのが多く、別に商店を持ち、何大人は蓄音機屋、誰は本屋等と聞かされた」そうだ。

 国中が麻のように乱れていた当時、中央政府といったところで、所詮は限られた地域を押さえているだけで実質は地方政府に毛の生えた程度。であればこそ教育投資などに手が、いや金が回りそうにない。いや回す気などサラサラない。そこで給料遅配となり、勢い先生は商店経営、蓄音機屋、本屋などの副業に励まざるをえなくなる。

 これではマトモな大学教育など望むだけムダということになるのだが、次いで「国民の知識欲のバロメーターなる本屋」を覗く。

 その「貧弱さは実に極度だ」った。「あんなに排日だと二尺大の文字を町に貼りながら、活字による思想宣伝はほとんど影を見」ない。たまたま西洋人のための商店街の一角で入った本屋も「半分は文房具だ」。どこを探してもマトモな本屋が見つからないし、当然のことながらマトモな本が売られていない。

 そこで、「つまり支那人は排日でも何でも事大主義の傾向をあおって民衆を動かして行けば御し易いから、中央政府も根本の理由を明らかにする方面に力を入れず、雑誌等も興味のない事は書かぬ為らしい。だから排日気勢も非常に大きな波を打って今は其下火らしい」と考えた。この市川の見立ては、確かに現在にも通じるものだ。

 「街でも本屋は無いかと常に注意していると、宿の近くに貸本所と云う看板が有った。そこで貸本の種類を尋ねると意外な返事が返ってきた。なんと「これは細民に資本を貸す所です、別に質物が有るでもなく、それで中々よく返金して、よく利用する」とのことである。つまり「貸本」の本は書籍ではなく資本だったわけだ。質物、つまり抵当に入れるものがなくても、金を貸してくれる。しかも細民は「中々よく返金して、よく利用する」。

 なぜ、こんな金貸し商売が成り立つのか。「無暗となんでもちょろまかす支那人」ではあるが、「又信じ合う処は、巧みに信じ合い、一時の益に迷って長い悔は残さぬらしい。それでなくては同郷人相扶けてあの様に国外発展はできない」と考えるに至った。

  故郷や先祖や仕事を共にする自己人(なかま)である限り、彼らは「無暗となんでもちょろまかす」ことはない。なぜなら、互の信用こそ細民が生きてゆくための最後の拠り所だからであり、それを失くしたなら生きて行くことはできないことを知るからだ。《QED》


Copyright (C) 2012 Geibundo All Rights Reserved