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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 910】 一三・五・念四
――「高価な玉や翡翠は全く全部くり抜かれてしまっている」
「美術郷・熱河」(村松梢風 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
30代半ばに渡って以来、モダニズム、コスモポリタニズム、それに猥雑で危険な雰囲気に溢れた上海の魅力に惹かれ『魔都』を著す一方で、『残菊物語』などの著作で知られる村松梢風(明治22=1889年~昭和36=1961年)が熱河に遊んだのは昭和8(1933)年。この年の1月、関東軍は万里の長城の東端の要衝であり、満州と中国本土とを結ぶべ長城に穿たれた関門の山海関を制圧し、次いで西に進み熱河を攻略。因みに前年の昭和7年3月、大同元年の年号を掲げ満洲国が建国を宣言した。
熱河は承徳とも呼び、北京の北方の長城の外に位置する。元来は清朝の領地であり満州国に属するはずだが、熱河を抗日拠点にしかねない満州軍閥の湯玉麟や張学良の機先を制すべく作戦を展開したわけだが、文中の「○○司令部になっている」とか「○○司令部の高木三等主計正」などの記述から判断して、村松は関東軍が熱河を制圧した3月以後に同地に赴いたようだ。
村松は、熱河にある清朝皇帝離宮の避暑山荘と乾隆年間(1735~96年)に建立された喇嘛教の八大名刹を訪れているが、先ず避暑山荘について、「熱河の離宮は、遊楽の目的よりも政治的意味を多く含んで造られたもので、清朝では国家非常の秋、満人蒙古人を提げて敵にあたる根拠地とするためであった。それがために此の地方へ満州旗人を沢山移住させ、封禁の地と云って、漢人は特殊の者以外は移住を許さなかった。・・・更に一つの目的は、蒙古民族を統御し、清朝の偉大さを示して、彼らを威圧するためでもあった」と説く。
近年は湯玉麟一族が住んでいた離宮の内部を見て周り、「すべての離宮の什器、仏像等は大きくて運び切れない物を除いて、殆ど一物も残っていない」。そこで「人に訊くと『湯玉麟が全部持って行った』と答える」。だが村松は「湯玉麟以前にも余程盗まれたらしい。何しろ乾隆以後百数十年間無用の長物視されて、修繕も行わないうえに、管理者が不正を行うために、宮殿は荒廃し、宝物は四散してしまったのだろう」と考える。
なぜ「宮殿は荒廃し、宝物は四散してしま」うのか。担当役人が私腹を肥やすために修繕を「政府から金を取る口実」にしたり、宝物を勝手に売り払ったりする。つまり現代にまで繋がる「公財私用」という役人の伝統的蓄財術ということになるわけだが、さらに村松は彼らの修理嫌いという性質に言及し、「支那人は物の修繕ということをしない。箪笥でも書棚でも毀れたら毀れっぱなしだ。修繕嫌いなのだ。南京の莫愁湖でも西湖の雷峰塔でも、あれ程有名な建物を修理しないものだから最近に土崩互解させてしまった。それに対して政府の無責任を攻撃する声も聞いたことがない。そのくせ詰らぬ政治問題には口喧しく議論する国民だのに、こうした事には全く無神経のように見える」と嘆いた後、「実に解し難い了簡ではある」と断じた。
喇嘛教名刹を訪ねるが、「大きな仏像は残っているが、小さい仏像の類は何処の寺へ行っても見当たらない。千体仏などは一体もない」。そこで「『どうしたのか』と喇嘛に尋ねると、きまって答える言葉は/『湯玉麟が持って行ってしまった』」である。そこで村松は「湯玉麟もいい面の皮だ。湯玉麟が、いくら欲張りだって、そう全部持って行けるものではない。実際は、喇嘛がとうに売りこかしたり、現在匿している物も少なくない」と考える。
「支那人は物の修繕ということをしない」「修繕嫌い」。「そのくせ詰らぬ政治問題には口喧しく議論する」。これ敷衍するなら、食べることには神経を全集中するくせに排泄作業には全く無頓着・無神経・・・村松ならずとも「実に解し難い了簡ではある」。確かに。《QED》
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