樋泉克夫教授コラム

【知道中国 911】                       一三・五・念六

  ――「これだから、私は支那趣味や支那思想を好まない」

 「北京印象記」(正宗白鳥 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 「寂寞」「何処へ」など著作によって自然主義作家の代表格ともいわれている正宗白鳥(明治12=1879年~昭和37=1962年)が北京を訪れたのは、昭和10(1935)年秋だった。

 この年の4月に天皇機関説を唱えた美濃部達吉の著作が発禁処分となり、7月に陸軍軍務局長の永田鉄山が相沢中佐に斬殺され、国内政局はキナ臭さを増す。一方の中国では11月から年末に掛け親日派の汪兆銘が狙撃され重傷を負い、殷汝耕が冀東防共委員会長に就任し自治を宣言し、内モンゴルで徳王が独立を宣言するなど日本軍部にとって大陸政策の切り札である有力者にとって大きな転機が訪れた。南京・上海・天津などで学生の排日運動も激化するなど、時代は「回帰不能点」に向かって速度を増しているようだが・・・。

 正宗は「最高の旅行季節」を愉しみつつ、「朝鮮奉天新京などを経て」北京入りする。

 「生まれた時代の関係で、年少の頃から漢詩漢文に親しみ、支那学の糟粕を有難がらされて育って来たにも関わらず、北京について知るところ極めて乏しく北京へ行ったら、万寿山と万里の長城とは見なければなるまいと、予め考えていた」ものの、正宗は万寿山を「一目見ただけて、意外にも、これは阿房らしいものであると、興の醒める心地がした」。なぜなら、それは「図体の大きいだけのものである」だけでなく、「ただ大袈裟に金をかけただけのものとしか、私には思われなかった」からだ。そこで「これだから、私は支那趣味や支那思想を好まないのだ」と、はき捨てる。さらには「代々漢学者や儒者は事実相違の古典の所説を金科玉条として、鹿爪らしく世人に教えたのだから可笑なものだ」とも。

 「支那趣味や支那思想を好まない」正宗だが、「支那の国土そのものは、物資が甚だ豊富なのではないかと、(北京市街を含む大平野を一望できる)香山の中腹から見渡しただけでも、私など素人目には痛感させられた」のである。たとえば「人間の消化力の堪え得ないほどに、贅沢な料理を並べて、無駄にしてしまう」料理を例に、「支那では食物の濫費を意に介しないほどに、昔から物資が豊かなのであろう」とし、数年前のアメリカでの経験を引きながら、「支那は米国同様、大国で物資豊富で、人間の気象も自然の風物同様セコつかず鷹揚であるらしい」と感じる。だが、「何故に世界的に落伍者たる境遇に堕しているのであろう」と疑問を抱く。

 北京の街を歩く。「この古風な都会の住民は、概して宵っ張りの朝寝坊であるらしい。料理の豊富なのから推察すると口腹の欲以外いろいろな享楽方法も発達しているのであろうが、他国人にはその享楽の真相は熟解されない」と考える。「支那の料理屋は一流の家でも、汚らしい。上等部屋で歓楽境らしい趣向は凝らしていない。実質的にただ飲食するだけの所としか思われない」。だが、「これが支那の国民性に適している」と納得する。

 「劇場も甚だ汚らしい」だけでなく、「役者が演技中、大ぴらに手洟をかんだり唾を吐いたりする」。「囃方も単調な音楽を奏しながら、互いに談笑したりしている。役者の顔のつりでも、見て醜悪な感じがする」。だが「人間の審美眼感はさまざまで、支那人はこういう舞台とこういう演技に享楽を覚えるのであろう」と考えた。さらに「日本の昔の吉原とも云うべき、長い伝統のある色街を一周しても、むしろ陰鬱な感じがする。表立って享楽欲を刺戟されるところがない」。そこで「その境地に底深く入ったら、他国人には想像し得られない支那独特の享楽を感受し得られるのであろうか」と疑問を抱く。

 北京で「積極的に我々をして芸術美に陶酔させ、心魂を踴躍させるものには接触」できず、正宗は「従来通り、支那趣味なるものには、融和し難い隔たりを有」ったままだ。《QED》




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