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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 912】 一三・五・念八
――「わたくしは心から北京の瀟清を愛するものである」
「書肆漫歩」「燕都食譜」(奥野信太郎『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
「従来通り、支那趣味なるものには、融和し難い隔たりを有」ったままの正宗白鳥とは対照的なのが、慶応大学で中国文学を教えた“粋人”の誉れ高い奥野信太郎(明治32=1899年~昭和43=1968年)だろう。 なによりも奥野は北京にゾッコンだ。北京での日々を満喫し、酔い痴れる。
「北京は静かな美しい町である。槐樹と柳と楡が鬱蒼と茂った町である。夏の頃は合歓の花が淡紅く墻壁のところどころを彩り、空には白い鳩が銀粉を撒らしたように耀きわたる。大きな城壁に囲まれたそのなかに、宮殿や並木路や彫像が、整然と左右対称に配置された、すばらしい構想をもった図案だといえば間違いない」 「この町の娘たちは、若さに溌溂としていながらも、またどこか旧都の女らしい典雅なおちつきがあって、尠くとも雑駁な感じを与えないだけに、その美醜に拘らず、清楚であり、嫻都である」 「久しい間の荘麗な宮廷生活が中心となって馴致されたこの町の嗜好は、香りにも繊美であり華奢である。それが料理にあらわされ、娯楽にあらわされ、その他生活の諸方面に顕然を認められる事は此上もなく北京というところをたのもしく思わせる」 「北京の夜空は実に美しいと思う。水蒸気が少ないから星が澄みきって光る。空は更に高く位置して星がぐっと浮いて見える」
――このように、奥野の描く北京には毎度お馴染みの手洟も唾も痰も、ましてや野糞も登場しない。それまで北京を訪れた多くが不潔極まりなく猥雑だとクソミソに批判・罵倒・嫌悪しているのとは違い、奥野は「わたしは心から北京の瀟清を愛するのである」と胸を張る。加えて「清浄」「典雅」「繊美」「華奢」などと最上の形容詞を並べ北京を讃美する。であればこそ、奥野の文章に糞尿のアンモニア臭なんぞを期待するほうがムリというもの。
奥野にしてみれば、中国を代表する京劇であれ料理であれ、「東西南北の各種各様の味いが、清朝以来、北京官人の嗜好に綜合され洗練され」、「それらいずれも北京という擂り鉢のなかに渾然として千紫万紅の美しい彩を示している」ことになる。
「北京飯店の屋上で藤椅子に椅りながらほのぼのと上るハイボールの酔を楽しむ時ほど気持ちのいいものはない」と、奥野はシミジミと呟く。
名物の烤羊肉は、「寒い星空の下、・・・どうかするとちらちら雪がふりはじめた晩など、外套の襟を立て」ながら、「(烤羊肉の名店である正陽楼の)中庭の炉を囲んで片足を几に載せておのがじし羊を焼いて食べる」のが通の食べ方であり、「羊の肉には不思議に紹興酒より白乾児の方がよく合う。白乾児というのは満州で言うところの高粱酒であるが、なかでも汾酒と称するものを以って最とする」そうな。だが、汾酒はニオイがきつ過ぎマス。
なんとも陶然駘蕩と優雅極まりないような北京生活だ。この文章の末尾には「(昭和十一年~十三年)」と記されているが、この間、日中双方で何が起きていたのか。
二・二六事件は昭和11(1936)年。翌年7月には北京郊外で盧溝橋事件が発生し、年末には日本軍は南京に入城。13(1938)年半ばには徐州に軍を進め、11月にはバイアス湾上陸に成功している。一方の中国では36年末に西安事件が発生し、共産党の巧みな宣伝工作が奏功し全土で抗日機運が盛り上がり、日中双方は疾風怒濤の時代のとば口に立っていた。
奥野は戦争にも抗日にも関心を示そうとせず、ひたすら北京で古書や骨董を漁り、京劇を愛で、料理を愉しもうとする。天晴れ!といいたいほどに見事な韜晦ぶりである。《QED》
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