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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 913】 一三・五・三十
――「喧噪と臭気との他弁別し難い様な人の波だ」(小林の1)
「杭州」「満州の印象」他(小林秀雄『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
小林秀雄(明治35=1902年~昭和58=1983年)は昭和13(1938)年4月から12月にかけ、上海、杭州、南京、蘇州、満州を巡った。
当時の内外情況を見ておくと、昭和12年11月に日本軍が杭州湾に上陸した。蔣介石率いる国民政府は南京を放棄して重慶に逃げ込み、四川を中心とする内陸奥部を「大後方」と称し、ビルマ(現ミャンマー)経由による米国の支援を頼りとして生き延びる道を選んだ。12月に南京が陥落し、明けて昭和13年1月には「以後、蔣介石政府相手にせず」の近衛声明が発表された。5月には日本軍は徐州を攻陥し、10月にはバイアス湾に上陸し、広東を占領し、武漢三鎮を陥落させている。赫々たる戦果である。加えるなら、徐州攻陥とバイアス湾上陸の7月から8月の間に、ソ満国境の張鼓峰で日ソ両軍は戦火を交えた。
小林が訪れた土地は、どこも硝煙が漂っていた。南京に足を踏み入れたのは、かの「大虐殺事件」の発生から5ヶ月ほどが過ぎた昭和13年4月のこと。戦勝に沸き立つ周囲に雷同することなくひたすら戦場を歩き、考え、書き続ける。
「戦争の裏面を知り度い気持、戦争に関する曝露的な好奇心という様なもの、そういうものもこちらに来て了えば忽ち無くなって了う。そういう話に耳を傾けるのも暫くの間だ」。それというのも、「戦争が日常の生活となって了った軍人の、戦争に対する沈着さを目の前に見せられては、実にはっきりして了う」からである。
「小学校の同窓生である」「陸戦隊の土師部隊長」は上海での激戦の記憶を、「何の誇張も交えず、平静な口調で、ぽつりぽつりと語る」。彼を見ながら、小林の「心は感謝の念で一杯になり、何か毛色の変わった話を知らず識らずのうちに期待していた自分が恥ずかしくなるばかりであった」・・・かくして小林の戦場歩きがはじまった。
先ずは上海から杭州への8時間の列車の旅である。「討伐を了えて杭州に還るという部隊で、満員の貨車になかに割り込まして貰う」のだが、「兵隊さん達は、非常に疲れているらしく、汽車が動き出すと大半は寝て了った。曇り日の風は冷たく、貨車の扉は細目に開けられただけなので、外の景色はよく見えない。着く駅は悉く破壊されている」。
この先は危険区域と警備兵からの注意が伝達されると、「急に車内は緊張する。皆立ち上がって銃をとり鉄兜を被る。胸を開いて、防弾の真綿を重ね直す者もいる」。だが危険区域も無事に過ぎると、「戸口に立った兵は膝をつき、銃を握ったまま、眠って了った」。
これが、「兵隊さん達」の「戦争に対する沈着さ」というものだろうか。 杭州に着いたのは「既に薄暮であった」。「翌朝、遅く目を覚まして西湖を眺め」、「杭州はいい処だと聞いて来たが、こんな夢の様な美しさに接しようとは思わなかった」と、感激一入である。
「空は飽くまでも青く、小波さえ立たぬ湖面、柳が煙った有名な白堤や蘇堤、満開の花に白木蓮、何も彼もが、燃え上がるように輝いている。湖を取巻く山々は春霞が棚曳き、寺院の屋根や塔が光る。呆然と何事も思わない」。そして「湖上に浮かんだ鴨の群は動こうともしない」。「湖心から眺め渡した駘蕩たる風景は、いかにも三千年夢の間という感が深い。島の名も山の名も、寺の名も、聞く気にも覚える気にもなれぬ。みんな集まって光を浴び、ただ春蘭という一語を作っている様だ」。だが、そこも戦場に変わりなかった。《QED》
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