樋泉克夫教授コラム

【知道中国 914】                       一三・六・初一

  ――「喧噪と臭気との他弁別し難い様な人の波だ」(小林の2)

 「杭州」「満州の印象」他(小林秀雄『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 小林は芥川賞を渡すため、火野葦平が軍務に就いていた杭州に駐屯する部隊を訪ねた。

 「火野君は戦争の事はあまり話したくないらしい」といいながらも、「杭州湾の敵前上陸で完全に灯火管制した暗黒の船の中で、お互に手を握って決意を固め、上陸地点を示す信号燈を睨んで息を呑んだその時までは、恐怖の心に見舞われたが、その時を限って戦のなかに飛び込んだ後は、恐怖というものは、一切覚えなかった。今から思えば、死ななかったのが不思議な様な目に屡々会ったが、そういう場合でもまるで平気だった。冗談をいったり女の話をしたりしていた。その全くの冷静さが、今から思えばどうもおかしいのだ」と、火野の述懐を綴っている。

 小林と火野は2人で舟遊びにでかけた。「酒よりも寧ろ春光に酔い、いい気持ちでうろつき廻る」。とはいえ酒は必携の品だ。一升しか持たなかったので「倹約して呑み呑みし」ていたのだが、「どうも減り具合をみると」船頭が偸み呑みしているようだ。「案の定、彼は酔っぱらって、帰りは上着を脱ぎ裸になってやっているのだが、舟は遅々として進まない。黄色く痩せたひどい身体をしている」。そんな船頭の体を見て、「支那兵の身体もみんなあんなものだ。肥っているものは金持ちだけだ。やる時は夢中だが、死んだのを見るとこんな奴かと思う、と火野君が述懐する」。それが戦場の姿だろう。

 ある一日、「N君」に誘われ宋代の救国の英雄で知られる岳飛廟参りに出かける。

 「墓を前にして南宋の奸臣秦檜其他三人の鉄像が、両膝をつき、両手を後ろに廻して立っている。こいつに小便をひっかけるのが参拝者の礼の由。丁度もようしていたので、一番端っこの奴のお臍の辺りにジャアジャアやって置いた。お臍には王民と彫ってあった。王民って誰だと聞いたら秦檜の妻君だそうだ」。(おそらく「王民」は王氏の誤植)

 漢族の“歴史認識”でいうなら、代表的な救国の英雄といえば岳飛であり、その反対に位置する漢奸、つまり究極の極悪非道売国奴の筆頭が秦檜ということになる。その伝で、日中戦争当時は蔣介石が救国の英雄で、蔣介石が逃げ込んだ重慶を脱出して南京に親日政権を打ち立て、日本に向かって「同生共死」と呼びかけた汪兆銘は秦檜の末流であり、汪兆銘夫人で豪胆を貫いた陳璧君は、さながら王氏ということになる。

 日本降伏の後、蔣介石は重慶から南京に“凱旋”したが、その祝砲とでもいうのか、汪兆銘の墓を爆破している。確か汪兆銘と陳璧君の後ろ手に縛られた坐像を、秦檜と王氏の坐像の隣に置き、憎くんでも余りある日本に媚び諂った罪とばかりにツバを吐きつけ、小便を掛けていたはずだ。数年前、反日運動が起きた時、後ろ手に縛られた東条英機の坐像が引きずり回されていた記憶があるが、これまた秦檜、汪兆銘に与えた罰を思い起こしての所業だろう。ツバと小便とは判り易いといえば判り易いが、余り美しくないだろうに。

 だが違った視点から冷静に振り返ってみれば、敵に通じ、むざむざと敵に国土を売り渡す極悪犯罪と見える秦檜、汪兆銘の方策も、国内的対立、国内的混乱、国土の荒廃を可能な限り回避し、民衆の安穏な生活を守ろうとする苦汁の決断だった側面も指摘できる。現に汪兆銘は日本という当面の敵よりも共産党、その背後のコミンテルンの方が幾層倍も中国に災禍をもたらすと警告していたではないか。だが蔣介石は耳を塞いだ。かくて数年後、毛沢東は北京に共産党政権を打ち立てることとなる。預言者は、故郷に入れられなかった。

 漢民族の間で漢奸と決め付けられたら、未来永劫の極悪人。漢族が続く限り、その罪が洗い流されることなどありえない。彼らの“執念深い歴史認識“は、禍々しい過去も水に流し、善悪を超えて寛恕すべく努めてきた日本人には、やはり共有できそうにない。《QED》



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