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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 917】 一三・六・初七
――「喧噪と臭気との他弁別し難い様な人の波だ」(小林の5)
「杭州」「満州の印象」他(小林秀雄『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
小林の散策は続く。 「西湖の西にある保叔塔の裏にも工事半ばのものだが」、「恐らく数千人を入れるに足りるトンネルが出来ている」。そして「赤い岩山の肌は、すっかり緑色のペンキで塗られている」。緑色のペンキを赤い岩肌に塗りつけることで、緑の山肌と思い込ませようというのだろう。そういえば北京オリンピック当時、北京の街路を緑のペンキで塗装し街の緑化をアピールしたことがあったように記憶しているが、この手の偽装手法は昔から使われていたということ。ならば、共産党中国の専売特許というわけでもなさそうだ。
さらに散策し、「昔、呉越の境で有名な呉山に登ってみたが、そこにも煉瓦造りの瀟洒な航空監視所が立っている」。「西湖が一望の下」というだけではなく、「反対側には銭塘江が、静かに、長く光り、両岸の砂地が桃色にみえ、菜種畠が鮮やかな色で、これも両岸に沿うて果てしなくつづいている」というから、航空監視所にしておくのはもったいない環境といっていい。そのうえに「哨舎のなかから、支那兵が遺していったピアノの音が聞える」。日本兵が弾いているの。戦場にピアノを持ち込むとは、いったい「支那兵」はどういう料簡なのだろうか。
緑色のペンキで塗られた赤い肌の岩山といい、哨舎に持ち込まれたピアノといい、まるで戦場ではないように長閑だ。そこで小林が西湖を眺め、銭塘江の両岸に広がる桃色や菜種畠の鮮やかな色を愛でながら「いい気持ちになって寝そべっていると、兵隊さんが登って来て笑い乍ら、狙撃されますよ、と言う」。なんでも「銭塘江の向う岸にいる残敵は、五六万と推定されているそうだ」。「その日も朝のうちはしきりに砲声が聞えたが、今は静まり返った春の真昼だ」。「ここにもよく打って来ますがね」と注意してくれた兵士は「キャラメルをしゃぶり乍ら、鶏小屋を指し、ずい分増えましたよ、と屈託なさそうな顔」だった。
そこは、紛れもなく戦場だった。だが戦闘が終われば元の西湖や銭塘江に戻る。ピアノの音が流れ、食料現地調達のためだろう兵士は鶏を飼い繁殖させている。あまりにも長閑な日常ではあるが、その長閑な日常を切り裂くように敵の狙撃兵から銃弾が放たれる。同じように日本側だって、狙撃兵を配置につけているはずだ。
日常の間に戦闘という非日常が挟まり、日々が過ぎてゆく。これが戦場だろう。
最前線の視察の誘いを断わる。それというのも、「恐ろしくもあったが、そういう処を自動車などで見て廻るという事が、何か大変心に咎める思いでもあった」からだ。
一旦、上海に戻った小林は、「戦跡を自動車でぐるぐる見て廻ったが、一日僅か四十米とか五十米としか進めなかった悪戦苦闘の跡を、風を切って車を飛ばしていることが、僕にはどうにも堪らない気がして、激戦地を指され色々と説明を聞かされるが、殆ど耳に入らなかった」。
小林は一人で上海の繁華街を歩いてみた。「この賑やかな通りも、一歩横町を曲がれば、目を見張る許りの廃墟である。香華を手向けられた新しい墓標が幾つも立っている」。目に飛び込んでくる「あらゆるものが、ここでつい先だって行われた事実を語っている筈なのだが、僕の想像力は、為すところを知らないのである」。かくて、「僕は墓標に出会う毎に、ただ黙禱するだけであった」。「この賑やかな通り」も、一歩曲がったその先の横町も、「つい先だって」までは日中双方の兵士によって死戦が繰り返される戦場だった。《QED》
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