樋泉克夫教授コラム

【知道中国 918】                         一三・六・初九

 ――「喧噪と臭気との他弁別し難い様な人の波だ」(小林の6)

 「杭州」「満州の印象」他(小林秀雄『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 「杭州の占領には、戦闘がなかったので、街は少しも壊れていない」。大商店や邸宅は全部閉ざされたままだが、「市民は二十万程還って来ているそうだが、殆どは下層民らしい。そういう市民と名が付けられるかどうか覚束ないのが、うようよしている」。

 そんな杭州の街を歩く。「両側の歩道も物売りの行列で異様な臭気と喧騒」だが、その喧騒の中を6,7歳の子供までが商売に励んでいる。「そういう支那の子供は、非常にこまちゃくれているのだろうが、言葉がつうじないから、そのこまちゃくれた感じが呑み込めず、悪びれないで、一人前の顔で商売している様子が、驚くほど汚らしいが、何となくとぼけた服装のせいもあって、仲々可愛らしい」。「両頬に紅で日の丸」を描いた子供がタマゴ、タマゴといいながらついてくる。「要らないと言ったらどこまでもついて来る。最初に笑顔を見せたが負けで、結局三つ買わされ」てしまった。

 「この街筋は、朝の内から非常な雑沓なのだが」、小林の観察によれば全体の3分の2ほどは「皆ただ何という事なくぼんやり立ったり、うろうろしたりしているのである」。かくて、「支那人にはそういう癖があるようだ」と結論づけた。さらに彼らが「がやがやと群り立っているのに何事かと思ったら、来る毎に同じ様にがやがやしているので、ただ単にがやがやしているのだと解った」そうだ。

 流石に小林である。目の付け所が違う。「皆ただ何という事なくぼんやり立ったり、うろうろしたり」、「ただ単にがやがやしている」。じつは「支那人にはそういう癖がある」。それというのも、「中国人はたっぷりある暇とその暇を潰す楽しみを持っている」(『中国=文化と思想』(林語堂 講談社学術文庫 1989年)からだ。戦争の最中でも、彼らは暇潰しに勤しみ、暇を楽しんでいたようだ。

 やがて「喧しい銅鑼の音が聞えたので振り返った。消防隊である。火事場に行くのではないらしい」。「出初と言ったような示威行列と思われた」。「先頭は纏持ちの格で、薄汚れた白旗を持って駆けて来る。それに子供が続き、これは銅鑼を叩いている」。「次がポンプだが、とてもポンプだとは思えず、小さな桶の腹に消防組とペンキで書いてあったので、ははポンプかと気がつき、併せてこの行列が消防だと気づいた始末だ」った。全員が「無論制服などというものは着てはいない。跣もいれば、草鞋を履いたものもいる」。なんとも珍妙な消防隊だが、それでも消防隊には変わりない。

 日本軍の猛攻を支え切れずに蔣介石政権が去った後の無政府状態の南京に、この年(昭和13=1938)3月28日、日本軍の中支派遣軍の後押しで江蘇、浙江、安徽の3省に加え南京と上海とを直轄市とする中華民国維新政府が成立している。小林が目にした消防隊のパレードは、それを祝賀するものだった。中華民国を名乗っているものの、長江下流域を抑える地方政権でしかなく、ほどなく瓦解してしまうのだが。

 なにが起きるか解らない杭州に、小林は余程の興味をもった。だから「汚いのを我慢しては、よく出掛けてみた」。すると「奇妙な掛け声をかけ、らっきょうの端を切った様な恰好の桶を担いだ汚穢屋の行列も通る。だが何が通っても川を舟で行く様なもので、後はもう喧騒と臭気との他弁別し難い様な人の波だ」った。

 「喧騒と臭気との他弁別し難い様な人の波」を「眺めているとぼんやりして来」た。そこで、「十銭置いて長い事かかってお茶を飲」むが、「嘗て知らない孤独を感じ」てしまう。圧倒的な「喧騒と臭気との他弁別し難い様な人の波」・・・ここに中国の現実がある。《QED》



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