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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 921】 一三・六・仲五
――「喧噪と臭気との他弁別し難い様な人の波だ」(小林の9)
「杭州」「満州の印象」他(小林秀雄『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
確かに小林が憤るように「材料の不足は、支那人も日本人も同じ事」だろうし、日本人経営の「虹口の食い物屋などは、てんで商売というものをしていない」かも知れない。だが、そこが中国であり商売をしているのが中国人であることを忘れてはいけない。だから、必ずしも「材料の不足は、支那人も日本人も同じ事」ではないだろう。加えて彼らの商法では、二重帳簿に三重帳簿、裏帳簿のそのまた裏帳簿は常識中の常識ではないか。
サッカーでいうなら、アウェー中のアウェーでの商戦なのだ。「倭寇再来の意気」なんぞを鼻の先で笑い飛ばしてしまう商売が展開されていたに違いない。おそらく「いやあ『倭寇再来の意気』には、とてもとても敵いませんよ」などと籾手でニヤケながら。ところが「汚い背広にゴム長靴、銜え煙草で」そっくり返っているから、見事に足元を掬われる。
やはり小林も日本人だった。その慧眼を以ってしても、「倭寇再来の意気」だけでは突破できそうにない商売のカラクリを見抜くことは至難だったようだ。「倭寇再来の意気」も虚しいばかりにカラ回りしていたように思えて仕方がない。
当時の日本が掲げた「東亜新秩序」や「東洋平和」という崇高な理念を否定する心算は全くない。いや寧ろ高く称揚したい。だが、その結末を顧みた時、そこに「倭寇再来の意気」を重ね合わせることはできないだろうか。ルーズヴェルト、スターリン、チャーチル、蔣介石に毛沢東・・・とどのつまり日本人の常識では到底思いつきそうにないカラクリに、日本と日本人は翻弄されてしまった。そうに違いない。そうとでも看做さない限り、あの戦争の「起」から「承」「転」を経て「結」へと導かれた全過程は、到底考えられない。
小林は「南京行きはあまり気が進まなかった」。それというのも、「いろいろ話を聞いて、僕の見たいと思っているものが無さそうに感じたからだ」が、「行って見ると果たしてそうだった」。
上海から「南京までは汽車だと十二時間」。もちろん現在は高速鉄道を使えばアットいう間だ。経済至上社会は上海と南京の間を大幅に縮めたものではある。もっとも安全は保障できませんが。
「こちらに来てから時間の観念がまるで違って了った。こうも早く頭というものは順応するものかと呆れ」、新聞も読まず、「時々日を忘れているのに気が付く」ようになった小林は、長時間の汽車旅行でも「ぼんやり外を眺めてさえいれば少しも苦にならぬ」ようになっていた。「僕はどこまでも続く平凡な緑の平野を飽かず眺め」る。「クリークがあるらしく、白帆の行列が畠のなかを行く、水牛に乗った子供が行く」。
だが、ぼんやりしながらも考え続ける。 「行って見なければ、支那の広いのはわからぬと人に言われて、来てみて成る程広いとは思ったが、一体広い事が解るとはどういう意味なのか解らない」。そこで「麗かな陽を浴び、小じんまりと静まり返った長崎」から船に乗り、揚子江に入った時の情景を思い出す。
「小雨の降る下を果てしなく広がり白く泡を吹いた泥の海を眺め、ははあ、これが揚子江という奴か、成る程なあ、と思ったが、何が成る程なのか解らなかった」。「どうも広い事が実地に解るということは、ただ何となくぼんやりすることに外ならないらしい、言葉を代えれば、理解を一時中止することに帰着するらしい」。
昭和13(1938)年4月、小林は南京に到着する。かの「大虐殺事件」の発生からさほどの時間は経っていない。南京には「所謂難民区という特別の区劃は既にな」かった。《QED》
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