樋泉克夫教授コラム

【知道中国 922】                          一三・六・仲七

 ――「喧噪と臭気との他弁別し難い様な人の波だ」(小林の10)

 「杭州」「満州の印象」他(小林秀雄『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 「南京というだけあって、晩は早速南京虫にやられた」小林だったが、街の姿と、そこに生きる人々に目を向ける。

 小林は「南京の所謂難民区という特別な区劃は既になく、今は開放された四十万の人々が、この大都会にちりぢりとなり、思い思いの生活を営んでいる」と記す。

 「難民区」とは別名を南京安全区といい、当時南京に在住していたアメリカ人の大使館員や宣教師によって組織された南京安全区国際委員会(後に南京国際救済委員会と改称)によって管理されていた地域を指し、ここに多くの難民が流れ込む。この委員会に関係した欧米人が「南京大虐殺」の“一部始終を目撃”ということになっている。当時、南京のアメリカ大使館にはコミンテルンの影響を受けた館員がいたようにも思えるのだが。

 いまここで、事件の真偽について敢えて論じない。なぜなら小林の綴るところに従って、彼が歩いた当時の南京を再現したいからだ。とはいえ南京滞在の時が時である。事件に口を噤むわけにもいかないだろう。そこで熱烈なる中国共産党支持者であり、各地の農村根拠地を歩き、「革命聖地」の延安にも滞在し、毛沢東ら幹部と極めて近しい関係にあったアメリカ人女性ジャーナリストのA・スメドレーが綴った『中国の歌ごえ(上下)』(筑摩書房 1994年)のなかで、彼女が事件に言及した部分を提示しておくことに止めておく。

 彼女は「日本軍が南京を占領すると、彼らはおよそ二十万の市民と非武装兵を殺戮し」と事件を説き起こすが、事件に関する記述はたったの5行弱。かりに南京事件が現在の中国が主張するように「日本軍国主義の蛮行の鉄証」だと看做していたなら、大々的に、そして扇情的に書き立て日本を熱狂的に批判してしかるべきを、そうはしていない。なんとも興味がなさそうな筆致なのだ。どうやら彼女のような政治的立場の人間ですらも、事件への関心は薄かったと理解できる。 

 ところで「大虐殺あり派」の記述によれば、昭和13(1935)年の5月末になって日本軍当局が難民区を閉鎖したことになっている。だが小林は、4月の日付でこの文章を公表している。1ヶ月の違いは果たしてなにを意味するのか。微妙だが、やはり検討する必要がありそうな微妙なズレといえるだろう。

 小林の視線の先にあったのは、やはり日々を生き抜こうとする草民の姿だった。
 彼らには、「恐らく非常な忍耐力で生活の一歩を踏み出している様が見られる」。「バラック建てとは言うものの妙なもので、板、亜鉛、ブリキ、筵、寝台の壊れたの、折れた扉、ぼろ布其他見当もつかぬ材料で兎も角家の恰好を作っている」のだ。

 巡査の服装を見る。彼らの「洋服は腕だけ二重になって、白い上っ皮はボタンで取外しが出来るように拵えてある。支那人の汚いのを摑まえる時の用意で、腕だけ洗濯が利く様に工夫したものである」という。

 襤褸の中から何か取り出そうとする女性に目が向くが、取り出したのは赤ん坊だ。彼女は「赤ン坊を出して乳を含ませている」。「世間話をし乍ら並んで糞をしている者がある。糞を拭く時気が付いたのが、彼等は前の方から後ろへ押し出す様にポンと捨てる。家を建てるので鉋を使っている男があったが、これも前の方から先へ押し出す。糞を拭くのもその要領で僕等とは逆である」。では、なぜ「糞を拭く時」も鉋を使う時も「僕等とは逆」なのか。こういう習慣は「確かに或る心理的傾向を作っている」。だが、その「傾向が判然としない」。であればこそ小林は好奇心を発揮し、さらに街を歩き、見極めようとする。《QED》




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