歴史に「もし」を考えてみよう
よく言われる「歴史に“もし”は、ない」。歴史に未練を残すことへの戒めであろう。たしかに「あの時、こうだったら」と仮説にすがってもどうしようもないことだが、歴史を教訓として考察するなら「もし」もまた、未来に向けて有意義なものではないかと思う。
大東亜戦争において「もし」をいえば、例によって、すぐさま「歴史に“もし”はない」と聞こえてきそうだが、ひとつには、「負けたのだから言い訳は見苦しい」という理由がある。日本の美徳として、たしかにそうだと思うが、戦勝国にはそれが通じなかった。まして、戦争をしていない中華人民共和国は、今日、その美徳を逆手にとって外交カードにしている。
もうひとつは、「戦争は悪」という単純な考えで、「日本は悪いことをした」という思考がはたらき、反射的に「歴史に“もし”はない」と、仮説を唱えると、あたかも反省が足りないように説教してくる人もいたものだ。
殊更、大東亜戦争には、「歴史に“もし”はない」という思考が、はたらくような気がする。
そこで、うがった見方をしてみた。
日本人は、まんまと日本が侵略国家と洗脳されたが、連合国および敗戦利得者にとって「もし」を考えると、日本の正当性が見えてきて都合が悪くなるので、「歴史の“もし”はない」という概念を植えつけたのではないかと。
大東亜戦争において「もし」をいえば、例によって、すぐさま「歴史に“もし”はない」と聞こえてきそうだが、ひとつには、「負けたのだから言い訳は見苦しい」という理由がある。日本の美徳として、たしかにそうだと思うが、戦勝国にはそれが通じなかった。まして、戦争をしていない中華人民共和国は、今日、その美徳を逆手にとって外交カードにしている。
もうひとつは、「戦争は悪」という単純な考えで、「日本は悪いことをした」という思考がはたらき、反射的に「歴史に“もし”はない」と、仮説を唱えると、あたかも反省が足りないように説教してくる人もいたものだ。
殊更、大東亜戦争には、「歴史に“もし”はない」という思考が、はたらくような気がする。
そこで、うがった見方をしてみた。
日本人は、まんまと日本が侵略国家と洗脳されたが、連合国および敗戦利得者にとって「もし」を考えると、日本の正当性が見えてきて都合が悪くなるので、「歴史の“もし”はない」という概念を植えつけたのではないかと。