満州民族の行方
「中国4000年の歴史」を主張するのは、中国共産党が支配する今の中国の自説である。世界四大文明のひとつとして、この地域に長い歴史があるのは事実として、「あー、そうですね」と、ある程度、理解してあげる程度で十分だろう。
さてこの地域の歴史は、中国本土の民族を漢民族として考えれば、「元」や「清」のように、長年、外部勢力が支配していた時代があり、漢民族による国家の連続性はない。
現在は、中華人民共和国となっているが、漢民族支配で計算すれば、中華民国成立1912年から間もなく100年。それ以前の漢民族国家は、明で1368年〜1644年の276年間。日本の江戸時代より少し長いくらいだ。但し、江戸時代は日本国史上の政権のひとつであるが、明は、国の一生涯である。
今の中国は、血統からなる皇帝は居ないものの、一党独裁体制は皇帝型政治と変わりはない。先は長いが、あと180年ほど踏ん張れば、明を越えられる。
さて、その「明」が滅んだ後、登場した「清=満州民族」について考察したい。
秦の始皇帝が建造した万里の長城を延長し、今日の高い城壁にしたのは「明」の時代。実質的な漢民族国家の国境と考えてよいと思う。
「天高く馬肥ゆる秋」という諺がある。これは、秋になると馬に乗って北方より略奪に来る民族に対し、警戒することを言っており、それが建築物になったのが万里の長城であり、「元」を北方へ押し戻し、二度と南下させないようにした。
明にとって当初、最大の脅威は北方のモンゴル(北元=元)であったが、北東に位置する、統一された満州(女真)民族から度重なる攻撃を受けるようになる。後に明は滅亡し、満州民族による「清」は、万里の長城を超え南下し、中国を支配し、モンゴルをも支配した。
ちなみに満州は、外満州と内満州があり、現在、外満州がロシア領、内満州が中国領である。従来の中国の概念では、満州は、中華圏に含まれず、万里の長城で遮断された東夷,北狄といわれる場所であり、万里の長城の東端の関所より東にあることから「関東」とも呼ばれた。旧日本軍の「関東軍」は関東州からだが、その語源は、ここから由来する
さてこの地域の歴史は、中国本土の民族を漢民族として考えれば、「元」や「清」のように、長年、外部勢力が支配していた時代があり、漢民族による国家の連続性はない。
現在は、中華人民共和国となっているが、漢民族支配で計算すれば、中華民国成立1912年から間もなく100年。それ以前の漢民族国家は、明で1368年〜1644年の276年間。日本の江戸時代より少し長いくらいだ。但し、江戸時代は日本国史上の政権のひとつであるが、明は、国の一生涯である。
今の中国は、血統からなる皇帝は居ないものの、一党独裁体制は皇帝型政治と変わりはない。先は長いが、あと180年ほど踏ん張れば、明を越えられる。
さて、その「明」が滅んだ後、登場した「清=満州民族」について考察したい。
秦の始皇帝が建造した万里の長城を延長し、今日の高い城壁にしたのは「明」の時代。実質的な漢民族国家の国境と考えてよいと思う。
「天高く馬肥ゆる秋」という諺がある。これは、秋になると馬に乗って北方より略奪に来る民族に対し、警戒することを言っており、それが建築物になったのが万里の長城であり、「元」を北方へ押し戻し、二度と南下させないようにした。
明にとって当初、最大の脅威は北方のモンゴル(北元=元)であったが、北東に位置する、統一された満州(女真)民族から度重なる攻撃を受けるようになる。後に明は滅亡し、満州民族による「清」は、万里の長城を超え南下し、中国を支配し、モンゴルをも支配した。
ちなみに満州は、外満州と内満州があり、現在、外満州がロシア領、内満州が中国領である。従来の中国の概念では、満州は、中華圏に含まれず、万里の長城で遮断された東夷,北狄といわれる場所であり、万里の長城の東端の関所より東にあることから「関東」とも呼ばれた。旧日本軍の「関東軍」は関東州からだが、その語源は、ここから由来する