「戦国時代」を海外へ“持出し”した、豊臣秀吉。
支那の征服を目指すのは、地元の漢民族と、北方の蒙古や女真などが常連だが、例外としては、中華帝国が明朝の頃、日本がそれに加わった。戦国武将の豊臣秀吉である。
朝鮮半島を舞台に、途中交渉を含め1592〜98年の間、日本の秀吉による遠征軍と明・朝鮮連合軍が戦った。朝鮮では「壬辰倭乱」などと呼ばれ、日本では、「文禄・慶弔の役」「朝鮮出兵」という。
戦国時代の始期と終期には、いろいろな見解があり、「応仁の乱」から、織田信長の足利義昭追放までの約100年が通説のようだ。しかし、合戦はその後も絶えず起きていたので、理屈抜きにすれば、戦の火種を根絶やしにした江戸幕府樹立が、終結のようにも思える。
これを加算して130年近く戦火を交え、疲弊せず新政府を樹立した当時の日本は、世界屈指の強大な国だった。
この戦国後期に風雲児、織田信長が表舞台へ登場したことで、乱世に終止符を打つ時期が間近になった。戦国の世、治世は力で他を圧倒し、出来上がる。信長は、破竹の勢いで天下統一に迫り、次なる目標は支那大陸征服に向いていたが、天下統一直前にして、身内のテロに倒れた。
信長没後、天下人になった豊臣秀吉は、支那大陸征服の構想も信長から継ぎ、「戦国の世」を、朝鮮半島まで拡大した。
朝鮮半島を舞台に、途中交渉を含め1592〜98年の間、日本の秀吉による遠征軍と明・朝鮮連合軍が戦った。朝鮮では「壬辰倭乱」などと呼ばれ、日本では、「文禄・慶弔の役」「朝鮮出兵」という。
戦国時代の始期と終期には、いろいろな見解があり、「応仁の乱」から、織田信長の足利義昭追放までの約100年が通説のようだ。しかし、合戦はその後も絶えず起きていたので、理屈抜きにすれば、戦の火種を根絶やしにした江戸幕府樹立が、終結のようにも思える。
これを加算して130年近く戦火を交え、疲弊せず新政府を樹立した当時の日本は、世界屈指の強大な国だった。
この戦国後期に風雲児、織田信長が表舞台へ登場したことで、乱世に終止符を打つ時期が間近になった。戦国の世、治世は力で他を圧倒し、出来上がる。信長は、破竹の勢いで天下統一に迫り、次なる目標は支那大陸征服に向いていたが、天下統一直前にして、身内のテロに倒れた。
信長没後、天下人になった豊臣秀吉は、支那大陸征服の構想も信長から継ぎ、「戦国の世」を、朝鮮半島まで拡大した。