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オランダを駆逐した日支ハーフの鄭成功

 日露戦争は、東洋人の日本が、白人の列強ロシアを打ち負かしたとして、多くのアジアの人たちに光明をあたえた。また、第二次世界大戦では、インドシナにおいて日本軍により欧州列強が駆逐されるところを見た現地の人たちが、痛快に思ったという話を多く聞く。また、欧州戦においては、枢軸国のハンガリーやブルガリアはフン族の末裔といわれ、彼らの間では、ナチスドイツではなく同郷である東洋の日本こそ枢軸国の盟主となるべく意識していたという話を聞いた事がある。白人に対し、東洋の意地が、日本に感じられたのだろうか。


台南市にある「延平郡王祠」に鎮座する鄭成功像
 一般的には、アジアを植民地化する欧州列強を駆逐した東洋人が日露戦争での日本と思う人も多いが、実は、それ以前に列強を駆逐した東洋人がいる。台湾からオランダを追い出した鄭成功だ。
 寛永元年(1624年)当時、平戸(長崎県)で貿易商として活躍していた、明国福建人の父、鄭芝龍と肥前平戸藩の武士、田川七左衛門の娘の母、松との間で生まれた。日本生まれの日本・福建ハーフである。父は、朱印貿易を行いながら東南アジア一帯の貿易ルートを構築した福建人、李旦の跡を継ぎ、船団を武装化するなどした。平戸から台湾へ拠点を移したが、台湾南部へはオランダが入植をはじめており、家族で大陸へ移住。

 1644年、明が滅亡。鄭父子は、亡命明政権と共に清に対する抵抗を行うが、父、鄭芝龍は亡命政権に将来を見込めず、清に降伏。鄭成功は父の勢力を引き継ぎ、北伐軍を編成し、南京を目指すも、大敗。
 1661年、勢力建て直しのため台湾へ上陸し、当時、台湾を支配していたオランダの拠点、ぜーランディア城(台南)を陥落し、オランダを台湾から駆逐した。
 鄭成功は、清への反抗を志したが、翌年、病死。息子の鄭経が、その遺志を継ぎ、台湾を統治した。だが、台湾独自の政権を打ち立てたたものの「反清復明」であることから、清にとっては、抵抗勢力であり、1681年鄭経死去、1983年、清の攻撃に降伏した。


延平郡王祠は、日本統治時代は、鄭成功を祀る「開山神社」と呼ばれた。
社殿は、国民党によって解体され、鉄筋コンクリートの廟になっている。
正面に鳥居があり、その上に国民党の青天白日があることに不快感を示す台湾人は少なくない。


 鄭氏による台湾政権は、江戸幕府や英国から正式な貿易がなされ、独立国家としての地位を得ていたが、清からは「亡命明政権」とみなし清の版画に台湾が組み込まれた。この図式は、今日の中台関係に似る。国共内戦に敗れた国民党が台湾に居座り、大陸反攻を目指し「ひとつの中国」に拘ったことが、中華人民共和国が、台湾を自国の領土と主張する根拠を与えている。(現在の台湾は、日本が放棄したことにより何処にも属していない)
ただ、鄭成功の場合は、台湾開発始祖という点で、日本統治時代と同じであり、蒋介石は、腐敗と破壊を持ち込んだ災厄として、台湾人の評価は、鄭成功が最高なら、蒋介石は最低である。

 なお、清との戦いで、鄭芝龍・鄭成功父子は、大きな軍事力を持つ日本へ度々、軍事支援要請をしたが、鎖国を進めていた江戸幕府は、武器輸出の範囲で収め、直接的な軍事支援は行わなかった。これが、徳川家康の頃だったらどうなっていただろうか。家康は、明との関係を修復させ、女真(清)の軍事行動を気にかけていたことから、秀吉の朝鮮出兵より正当性があるとして、応じていたかもしれない。意図したものではないが、徳川将軍二世代の違いは、清が有利になるようにはたらいたことになる。


鄭成功の名を冠した国立成功大学には、日本統治時代に昭和天皇が皇太子の頃、植樹したガジュマルの樹が今も保存されている。


平成23年1月29日 記 
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