_塚本三郎元民社党委員長小論集_

天は中国を裁く                 塚本三郎

 現在、巨大な二つの黒い影が日本を覆っている。その一つは、中国の嘘で固めた国家権力の強圧であり、もう一つは、アメリカの金融支配による、経済社会の暗い影である。
 中国の国家権力の暴走と、米国の金融支配の横暴に対して、日本は、国家の威信をかけた、権力と民主主義の言論とによって、堂々と、是は是、否は否として、「正義の天鼓」を打ち続けるべきだ、と前便で述べた。今回は当面の中国の暴虐を更に取り上げる。

権力亡者の中国
 今日、日本その他のアジア諸国も、極めて危険な状況に立たされている。
 しかし、現在の日本の政界は、殆どその悲壮な状況に耳を貸す余裕を持たない。
 目下与野党の政局は、政権の争奪にすべてを傾けつくしているとしか思われない。
 時間の経過と共に、同盟国米国の勢力が弱体化し、それと反比例して、敵対を表面化している中国が、強力で、暴虐な牙を研ぎつつある。日本もアジアも、その狭間に在る。
 日本人は、自由と平等、平和と友好を、ひたすら国是の如く繰り返している。それは誤りではないし、何れの国もそれを否定しない。
 自由が自由として成り立つには、相手の自由を犯さないこと、弱肉強食の野蛮な自由は許さない、という不文律が在ってこそ成立する。
 平等も、出発点の平等と、基本的人権の平等であって、自由の活動が、その努力や実力や環境によって、結果として格差が出来て、不平等となることは当たり前のことである。
それを前提としての平等でなければ自由競争にならない。
 怠惰による落伍者、敗者による愚痴を、平等と叫ぶ人には、平等を叫ぶ資格がない。
 友好もまた、相手の立場を尊重し、体制の相違を認めた上での親善でなければならない。
 とりわけ国家間の友好は、複雑な国際社会にあって、相手国の国情の相違を認めた上で共存共栄を図るべきである。
 国家間の友好は、「内政不干渉」を前提としなければ友好は成り立たない。
 平和は人類最大の課題である。哲人、トマス・ホップスは、「万人の万人に対する闘争」と、人間間、国家間の今日までの歴史を一言で言い切った。しかも難しいのは、堂々と闘争を宣言するのではない。各人各国は、その真意はともあれ、その宣言する処は、何れも自由、平等、友好と呼ぶ、美辞麗句を用いながら、闘争の手段とするから始末が悪い。
 自由、平等、友好を、看板通り、それらしく実行しているのは日本のみではなかろうか。
 中国共産党政権は、国内及び国外において暴虐極まりない、非常識な行動を繰り返す。
 政権は銃口から生まれると豪語し、文字通り、銃口によって政権の座に就いたのが毛沢東である。中国共産党政権の毛沢東、鄧小平、江沢民、胡錦涛の各政権は、その路線を踏襲するのみならず、更に悪虐を強化している。天はそれを見逃す程に非情か。
 中国は、「二十一世紀は中国の世紀」と全世界に、華々しいイメージを売り込んでいる。
 胡錦涛現政権は、二〇〇八年八月八日の北京オリンピックのすべてに八の字をあて、良いことづくめと宣伝している。それが為に、目的の為には手段を選ばない。
 北京周辺の市街の整備に、人民の自由と人権を無視した行動が、四辺かまわず行なわれ、人民の顰蹙と怒りを買っている。その被害者が救済の道を求めても、政権は弾圧を繰り返して耳を貸さない。中国の政変は、常に人民の悲鳴による暴動の歴史である。
 二〇〇八年初頭、中国の春節(日本のお正月)には、五十年ぶりの大雪であった。
 雪を見ることさえ希な南の地方で、大雪の為、全交通機関がマヒした。その上、発電力、電線の故障によって、日常生活から生産活動まで、長期に亘って停滞を余儀なくされた。
 大雪の被害から漸く復旧の目途が立った矢先に、毒餃子事件が発生した。
 殺虫剤「メタミドホス」は、日本国民の手には入りかねる猛毒の薬品である。混入の原因を中国政府は、秘して明かさない。中国人民の、この毒混入の行為は、政府に対するものなのか、或いは国有食品企業の、経営者への不穏の行動なのか。
 本来ならば中国政府が、日本に対して、謝罪と見舞いの言葉を述べるのが常識である。
 中国の政府要人とて、それ程の常識を知らないはずはない。にもかかわらず、その常識
さえも放棄しなければならない程に、嘘が常識化しているのか。
 或いは、権力者が常識を弁ずる程の余裕を失っているのか。
 日本政府は事態の鎮静化に、被害者以上に加害者に協力的である。しかし、そのことがかえって、日本のみならず全世界に、中国の輸入食品危うしの警告を拡大しつつある。隠すことによって、悪事は自ら暴露されつつある。同様の毒事件は韓国にも伝播して来た。
 毒餃子事件は、食の安全を常識とする文明社会に、不気味な風聞を拡大させている。

チベット族の暴動
 三月十四日、中国西部のチベット自治区、ラサ中心部で、僧侶らによる、大規模なデモが行なわれた。それを鎮圧する中国政権の、武力発砲に反発して、市民が暴徒と化し、民衆によってホテルや店舗などが放火された。
 「暴動はダライ一派が、組織、計画したものだ」と中国の新華社通信は述べ、チベット仏教最高指導者、ダライ・ラマ十四世を非難している。
 ダライ・ラマは、「北京五輪について、世界最大の人口を持つ文明国である中国には開催の資格はある」と述べ、中止やボイコットを求める考えはないと表明している。そして、中国チベット自治区での暴動を、中国当局が武力で鎮圧した問題について、原因や死者数を把握するため、国際的な独立調査団が、直ちに現地入りをすることが望ましい、との見解を示した。しかし、中国当局はこれを拒否している。
 亡命政府(チベット族)は、直ちに死者は八〇名が確認されたと発表した。しかし、日を追って拡大し、数百名の死者とも言われる。
 中国は、軍事力で無理に占領して、自治区と評し、地域住民への強圧を重ねて来た。
 特に今回は、僧侶のデモに対しての弾圧に抗議して、チベット族民衆の暴動は、チベットから青海省へ、そして新彊ウイグルヘと拡大しつつある。
 そして、ニューヨークをはじめとする世界各国の、中国大使館への、チベット族の抗議デモが拡大されつつある。中国政府はそれ等のすべてを「仏教指導者の指示」だと、自らの失政、否、強圧に対する反抗の結果を、嘘で固めて、全世界に弁明悪宣伝を重ねている。
 天をも欺く中国の非道は、歴史の審判を迎え、春節の大雪のように天は歴然とその怒りを示した。
 中国が、やりたい放題の暴政を続け、これによって人民が苦しみ抜いても、武力をもってこれを鎮圧し、近隣諸国にも、時に武力、時に財力をもって懐柔し暴政を貫かんとしている。一体、それがいつまで続くのか。大衆は天を仰いで愁嘆するのみか。
 否々天は、五十年、百年の歴史を待つまでもなく、次々と悪因悪果の報を証明した。
 前述の如く、誰が五十年ぶりの大雪を計ったのか。誰が寺を餃子に混入せしめたのか。
 そして、誰が目下のチベット族の怒りの騒動を起させしめたのかは、独りダライ・ラマの陰謀と弁解し逃げて良いのか。ラサに駐在する、チベットの独立を提唱する代表は、
 ダライ・ラマ十四世が北京五輪開催を支持していることに「失望している」と明言し、彼が唱える、中国との対話路線についても「修正が望ましい」との考えを示した。

諸天は善人を救済するか?
 因果応報とはこのことだ。十九年前、チベットの漢民族支配に抗議するラマ僧のデモが頻発し、事態収拾のため自治区書記に派遣されたのが、若き日の胡錦濤国家主席だった。
 胡氏は、ラサに戒厳令を敷き、強硬路線を前面に、武力をもって多数の人民を虐殺によって鎮圧した。このときの功績が認められ、出世の階段をかけあがって今日の地位を得た。
 だが、北京五輪の輝かしき大事な年に、チベットで大騒乱が起きた。胡錦濤席としては、最高の晴れ舞台を目前に、はらわたが煮えくりかえっていることだろう。
 現地では、外国メディアの取材が厳しく制限され、正確な情報はなお乏しい。だが、中国国営テレビが流した、銀行や商店を襲う人々の顔つきだけをみても、チベット人の怒りの激しさがわかる。中国よ目覚めよ。悪業は、ことと次第によって、悪因を招くぞという、天の悲しみの啓示と見るべきである。
 ここまで騒乱が拡大されたら、ダライ・ラマは、中国政府に対する穏健な話し合いではなく、「人類の神聖な祭典であるオリンピックを開催する資格が中共政府には断じてない、そして我々に信仰の自由という約束を踏みにじっている、中国共産政権の支配を認めない」。
 「われわれチベット人は独立を要求する」、とダライ・ラマは約束違反の共産政権に抗議の声明を発し、その上、若者に対して、「流血の犠牲を敢えて抑える為譲歩し、妥協して来たことは誤りであった」と声明すべきではないか。
 釈迦の説く慈悲と堪忍の行は素晴らしい。だが社会組織の活動は、人を見て法を説けと評される如く、民族の尊厳と国家の独立は、相手の真意を読んで、の対応が必要である。
 「国亡び人滅せば誰か仏を崇め、誰か仏法を信ずべけんや」よ叫んだ、日蓮の「立正安国論」の立場こそ、真の仏教徒の姿勢ではないか。
 国家あって仏教の信仰が在ると、チベットの人々も、漸く気付いたのではないか。
 為すべきことを為さずしては、仏の加護は得られない.国民自身が立ち上がらなければ、天は善果を与えてはくれない。宗教者に武器を持てと言うのではないが。
 宗教者といえども、政治的対応は相手に依る。マハトマ・ガンジーが無抵抗によって独立を克ちとったと尊崇されるのは、相手が大英帝国と呼ぶ、人道とキリスト教徒の盛んな国家であったから。そして、スバス・チヤンドラ・ボースと呼ぶ英雄が居たからだ。
 自由と国家の尊厳を自負する民主陣営も、この騒乱を他人ごととせず、事態を黙視することは卑怯である。イギリスも、フランスも、中国の自戒と反省がなければ、オリンピックの開会式に国家の代表の欠席を、また選手の派遭さえ再考すると、ほのめかしている。
 日本政府は、ここで沈黙してはならない、チベット弾圧、毒餃子事件の嘘、スーダンにおけるダルフールの虐殺、等々.こんな中国に、平和とスポーツの祭典を主催する資格はあるのかと問い、オリンピックの参加に、厳しい条件を付けるべきだ。
 中国政府が今の態度を改めない限り、天はかつて大雪を降らせた如く、黄砂と異常気象をもたらすと自戒すべきだ。               平成二十年三月下旬





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