_塚本三郎元民社党委員長小論集_
釈迦に提婆(日本)と(中国)    平成二十四年四月上旬    塚本三郎

釈迦の大自然観(仏法)
◎ 王宮の中で王子(悉達多太子)として生まれた釈迦は、何不自由のない環境の中で成長
したが、やがて人生に、生・老・病・死の四大苦が避けられないことを知るに及んで、その原因を探求する為、王宮を脱け出し、隣国へ、一介の乞食となり流浪者として旅した。その間、八十歳までの生涯を、修行の旅として歩かれた。太子の行動とその言葉が仏教の源泉となったことは、仏教徒の等しく信じている処である。

◎ 釈迦が、地位も、財も捨て去り、そして己を無にして、人生の生き方を探求し続けた修
行の成果は、「大自然の法則」を悟り、具体的に、この世の中に適用された説、つまり数々の自然観及び人生観を「仏法」として伝えられている。それを弟子達が編纂し仏典として体系化したものと伝えられる。

◎ 仏法の説は、人生に対して四苦八苦の苦しみを与えるのは、大自然の罰則ではない。
より良い人間に成長せしめるための、大自然、即ち仏法による警告であり注意である。
苦しみの現象を「警告と受け止めるべきだ」と解釈する。それを天の啓示とも云う。
毎(ツネ)に是(コ)の念を為(ナ)す、何をもってか衆生をして 無上道に入り 速やかに 仏心を成就することを得せしめんと。               (法華経寿量品第十六)

 どうしたならば、罪多き凡人達をして、正しい大自然の法則に立ち帰り、太陽の下で、清らかに、和やかに、仏の如き暖かい心の人格者に育て上げることが出来るであろうか、大自然の働きとは、その行動のみに尽きる。

◎ 諸天、衆生を憐むが故に 大導師となって囲繞す
我々の眼前に現れた、見るもの、聞くことの「あらゆる姿」は、諸天が注意し、警告し、人間が正しき心と行動に向上せしめ、反省させるべく、仏の使いとして、我々の周囲に、取り巻いて、反省せよ、懺悔せよ、と教え導いておられる、と受け止め、悟るべきだ。

◎ 大自然の下に生かされ、育てられているのが人間である。その大自然は、植物が種を蒔
くことによってのみ(因縁)が果報と成って生育されるように、人間生活も全く同様であ
り、種を蒔き、施肥を行ない、雑草を除去する如く、これを手本とすべきである。
日本古来の教訓は、神道として各村々に神社が祀られている。我々の祖先は、神々の守護と五穀豊穣を願っての、大自然への祈りと帰服でもあった。

 その日本人の思想は、仏教の根本教義である「因果応報」そのものと合致している。
 だからこそ、日本の神道と、外国から伝来した仏教が、殆んど違和感なく合流して来た。

鎌倉時代と日蓮の立正安国論
◎ その時代に起きた苦しみは、その時代に原因があるはずだ。その苦しみは、我々自身が作り出したものである。経済的な豊かさを追求する人間には限度がない。欲の器には底がない。己の欲を抑え、足るを知る心こそ、物欲万能の現世に必要な修行の道である。

◎ 「立正安国論」を執筆された鎌倉時代(約七百六十年前)は、国内に戦争(内乱)が在り、地震や台風や、干ばつ、大火事が頻発し、多くの人々が家を失い、食が不足して悲惨な苦しみの中で暮らしていた。その結果、この世での幸せをあきらめ、死後の、苦しみの無い、清らかな世界に生まれ変ることを願い、阿弥陀如来のいる西方浄土を願っていた。

◎ 「所詮、天下泰平、国土安穏は君臣の願うところ、土民の思うところなり」
「それ、国は法に依って昌え、法は人に因って貴し。国亡び人滅せば、仏を誰か崇むべき、法をば誰か信ずべけんや。まず国家を祈って仏法を立つべし」。 『立正安国論』日蓮上人
 立正安国論は、他の宗教学や哲学と異って、特長づけているのは、政治権力の力である。
 日蓮は釈迦の説かれた一切経をひもとき例示して、現代は末法である。末法では
 国家、国民に対して、幸、不幸の根本は国政に在る。その国政の誤りこそ大自然が、天災として、警告を発する。それが天変地異であり、三災七難と示す、地震、津波、旱魃、非時風雨、悪疫流行、内乱、そして他国逼であり、蒙古来襲をも予言警告した。

◎ 思えば昨年三月十一日の大震災は、想定外と報道されて来たが、その後、引き続いて襲いつつある、中・小の地震は、僅か一年を経ずして三百回を数えている。
 いつまでこの地震は続くのか。仏説を読み解くならば、日本人の物欲に溢れた「魂が改められるまで」、と解すべきではないか。日本人らしくない姿に、大自然が、警告として震動しているからだ。追い討ちを掛けるように、インフルエンザで、街行く人々はマスクの大流行、学校の諸行事も、悪病の伝染を避ける為、行事の中止と警告している。
◎ 釈迦に対抗する提婆達多――釈迦の指導と修行の成果は、多くの弟子達を集め、村人は釈尊と尊称し敬慕した。その人望を羨み、妨害を続けたのが、弟子の提婆達多だった。
 提婆は、釈迦の従弟であり、修行の上で「神通力」に長じた能力を保持していた。提婆は、やがて羨みが憎しみとなり、遂に釈迦を亡き者にせんと、危険な策略を重ねた。
 釈迦の弟子達は、提婆の妨害に対抗することを進言した。
 釈迦は弟子たちに告げる。――提婆とは、私が前の世に在った時(檀徳王)私は、国民に善政を施す為、王位を弟に譲り、山に入って修行した。その時の師匠(阿私仙人)であった。山の中では、あらゆる修行に励み、師に供えて飽くことがなかった。
 その結果、悟りを開くことが出来た。その時の檀徳王とは、私の前の世の姿であり、阿私仙人とは、今の提婆達多是なり。「提婆達多在るがゆえに我れ解脱せり」。
 前世の師匠だったからこそ、よくぞ仇役と呼ぶ悪役をを勤めていてくれるのだ。
 提婆達多は私の足らざる処を教えてくれる、仏の大切な使者である。
 仏教は、前世、現世、来世、の三世が不離一体であると説くことで真実を知らせる。

◎ 日本史上、文明開化は明治維新を初めとみる。
 日本が国家として、自主独立の外交と交易を進めるに際して、歴史的に幾多の障害が立ち塞がって来る。その時には、常に支那(中国)が最大にして唯一の関門であった。
 日清戦争、日露戦争、そして満州事変、日支事変、昭和の大東亜戦争等、すべてが、中国こそ、争いの発火点、日本の最大関門として避けられなかった。
 近々また、米国と中国との世界一の覇権争いの、谷間に日本が位置させられている。

◎ 中国の発展は、即、日本経済の伸展にも大いに寄与する。その反面、中国の政権は、自国経済の発展即、全アジアのみならず、アメリカと、世界を支配する最大強国を目的として、武力中心の覇権を志している、その第一歩として、恫喝外交で、四囲の各国を脅し続けている。とりわけアセアン諸国は、中国の脅威に翻弄されつつある。

 日本はアジアに於ける小国ではあるが、神の国、仏の国として、その資質を与えられた幸運と共に、「使命を帯びて此の世に存在した国」と自覚していたのではないか。
それゆえにこそ、中国と呼ぶ、「油断出来ない試練の国」が隣の国に位置されていると見るべきである。それは「釈迦に対する提婆達多」そのものとみるべきではないか。

 儒教も道教も、いや仏教さえも、もとを糺せば、中国から伝えられた教えではないか。昔の師匠が、生まれ変って「仇役を果たす中国」こそ、仏教国日本をして、本物の仏教国たらしめるため、仏の使いとして、提婆達多の悪役を中国が果たしつつあると悟る。

四月八日は、お釈迦様の誕生日である
 熱心な仏教徒ならずとも、日本中が花まつりと、先祖供養の行事を行なう。
 今回は、仏教と政治の関係について、やや詳しく書いてみた。
 私は偶然の機会ではあったが、仏教の説を教えられたのが、昭和十九年の秋であった。
 大東亜戦争の最中で、既に、日本本土が空襲の災禍を体験させられ始めた頃である。
 友人が仏教の布教師を伴って面会を求められた。名古屋鉄道局勤務の青年だった。
 当時既に、日本は敗戦の気配が濃厚となりつつあった。名古屋市の中心部は、既に空襲による被害が発生しつつあった頃と記憶する。

 布教師曰く。「このままいけば、日本は残念だが負けるかもしれんよ」
 君達は、祖国必勝の為に全力を尽くしなさい。万一日本がこの戦争に負けるとしても、お国の為に必死になって戦い、働いて、その結果として敗れても、それは致し方がない。勿論、勝つに越したことはない。だが結果として、負けたとしても、あなた達が死力を尽くして、お国のために働いたことは、結果として、あなた達にとっては、「悪い結果とはならない。むしろ負けたことが、あなたたちにとっては、良いこととなることだってあるよ。善人が不幸になることは決してないから。」

 その言葉に、私は驚いた。「善人が不幸になる筈はない」それは判る。だが日本が戦争に敗れれば、アメリカ人の奴隷にさせられる。それが「鬼畜米英」だと教えられて育った我々である。当時、僅か十九歳の若造であった。

 此の世の中は因果応報だよ。あなたがお国の為に尽くせば、お国はきっとあなたの為になるよう、必ず報いてくれる。そんな言葉は正論に違いない。
 それならば、米英が全アジアを「属国の植民地」として支配しているとき、日本は全アジアを解放しつつある。その「征戦遂行」の日本が、なぜ苦戦を強いられるのか?
 その問いに、布教師は答えてくれない。それは無理な問いかもしれない。
 だが善人が不幸になる筈はない。その信念はゆるがなかった。
 爾来、祖国の前途を憂いる若者が、布教師の宅に、数名相集まって、因果応報と教えられた、「仏教経典の勉強会」を夜毎に重ねることになった。

 残念ながら日本は負けた。占領軍は、日本全土を支配した。我々の職場「名古屋鉄道局指導課」が労働課に代えられ、その任務は一変させられた。労働組合の組織化である。
 その結果、名古屋鉄道局(中部地方)は、労働組合が結成され、私は名古屋を代表して上京することになり、思いもよらぬ東京常駐となった。それゆえ中央大学の夜間学生になることも出来た。負けたことが、上京の機会を得ることになった。

 戦時中には、夢にも画くことがなかった、大学生活の第一歩であった。「勝つにこしたことはない」しかし「負けたことが良かった」と云うことだってあるよ、それが仏の教える「因果応報」だよ。だから一身をお国の為に捧げて働きなさい。それは、正に金言として私の人生を支えてくれた。大切な祖国の敗戦さえ、私の幸運の道を拓いてくれた。
「三郎さん、代議士となっても、仏の教えは忘れなさるな」師匠の言である。





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