_塚本三郎元民社党委員長小論集_

百年前からの歴史を省みる    平成二十四年四月下旬    塚本三郎


 約百年前(大正三年)第一次世界大戦が起こった。ドイツは膠州湾の青島を根拠地として、東洋艦隊を置いていた。ドイツの巡洋艦が、イギリスの商船を脅かした。イギリスは、ドイツの艦船を撃破する為、日本の対独参戦を求めて来た。日本はこれに応えて参戦。
 同年十月、日本軍は、ドイツ軍と激しい砲撃戦の結果、一週間後に青島を占領した。またドイツの東洋艦隊を追って南下し、独軍のマーシャル群島(マーシャル・マリアナ・カロリン)を占領した。第一次世界大戦は、「日本に漁夫の利」をおさめる好機となった。
 だが、好機こそ魔の機会となった。
 青島を日本軍が占領して、中国の抗議と敵意を育てた。もともと青島は中国領だった。
 マーシャル群島の占領は、アメリカの警戒心と敵意を求めることになった。
 「此の世の中、ただより高い買い物は無い」の世評となった。
 米国は、日露戦争の終わった翌年あたりから、セオドア・ルーズベルト大統領の指示で、対日戦争計画を練り始めた。「オレンジ計画」と呼ぶ。日本人が黄色人種だからなのか?
 十九世紀末、フィリピン・ハワイを獲得した米国にとって、次のフロンティアは、巨大市場の中国である。(当時は四億人のお客様と呼んでいたらしい。)
 だが既に満州の利権を独り占めし、中国への道に立ちはだかっていたのが、強力な海軍力を持つに至った、新興国の日本である。
 米国は、日本を満州から撤退させるべく、直接介入ではなく、海上作戦によって、戦うこと、即ち日本の海上戦力を減削することで、息の根を止めることを考えた。
 一九三〇年、ロンドン軍縮会議において、戦艦保有量を、米・英・日で五・五・三とさせられた。軍事上の不平等条約である。
 日本海海戦での日本海軍の強さを見せつけられるや、対日戦に向けて、米国は三十五年も前から、対日戦を考えていたと見るべきではないか。
中国内の混乱は、政権交代はあっても繰り返すのみで、治まる気配が無い。
一九一一年、孫文による辛亥革命が起き、その翌年、清朝が倒れ、中華民国が成立した。しかし、相変わらず軍閥割拠で統制がとれない。
一九二〇年には、ロシア革命で、共産勢力が中国へと勢力を伸ばして、中国国内は無政府状態が続き、国内は極貧の中で、人々は、その日の食さえ得られない状態であった。
この悲惨な日常に不満を抱く人々の間に、外国人への憎しみが広がり、中国に住む外国人への生命や財産は、一気に脅かされることになった。「困窮の原因は外国人」と人々を煽り、排除のため、外国人へ集団で襲いかかることが幾度も続いた。

満州事変は侵略戦争か?
 政府への不満を外国人への憎しみにすりかえる、というのが中国人の手法である。
 勿論、中国人民も屈辱的な条約や領土割譲は、中国経済を苦しめている。それゆえ最大の責任は、何時までも変らない、無能で腐敗した中国政府にある。
 この時代は、世界的に道義も道理もない、弱肉強食が列強の帝国主義のルールであった。
 この暴動で満州の日本人は、大変な目に遭遇することになった。
 日清戦争の頃の満州は、馬賊だらけの不毛の荒野を、日本の力によって、日露戦争後、二十年を経て、農業、鉱業、林業を興し、インフラを整え、中国の他の地域とは全く異なった、住みやすい土地へと変えていったのは日本人の努力である。勿論、日本は外国から多大な借金までして、この地を発展させたが、この日本人の努力は認められなかった。
 力を見せつけなければ、どこまでも増長する中国は、日本政府の和平と云う弱腰を見て、一九二八年、済南で、多数の在留邦人を暴行、虐殺し、多くの死体に陵辱まで加える。
 致し方なく、今度は在留民を守るべく、三千五百名の日本守備隊が、数万の大軍を相手に局地戦を戦わざるを得なかった。
 このような空気をみて、関東軍は満州事変へと突っ走った。政府も陸軍中央部も、不拡大であった。しかし、溜りに溜り、怒りに燃える関東軍は、中央部を無視して関東軍参謀・石原莞爾などが、事前に綿密な計画を立て、政府の許可なく、独断で実行した。
 一九三一年(昭和六年九月)柳条湖付近で満鉄線を爆破して事変を起こした。
それを翌年の満州建国につなげた。
 一万数千人の関東軍は。五ヶ月程で、十倍近い張学良軍を粉砕し、全満州を占領した。
他の列強諸国ならば、既に、以前に中国への報復に出ていたはずだ。今日の常識では考えられない、あの時代の空気だった。
 アメリカの上海副領事・タウンゼントが、満州事変の二年後に『暗黒大陸・中国の真実』の書を公にした、その中では「中国に駐在していた米英の官民の体制はこうである。……我々が何年もやるべきことだと言っていたことを日本がやってくれた」。
 「何年も前から中国当局は略奪行為を黙認し、反日プロパガンダをし、線路に石を置き、日本人を狙撃、殺害した。このようなことを、アメリカに住む人は知らないのだ。
 アメリカの各新聞に載るのは、宣教師や、上級外交官といった、中国におもねっている連中からの情報ばかりだからだ」。満州事変を契機に、一気に米世論が反日一辺倒になったことについて、右の如く書いている。現地に居た「米国政府代表」の書である。
 満州国は、当初こそ日本の植民地的色彩が強かったものの、日本が、大々的に資本を投下し、重工業が育ち、インフラが整備され、治安がめっきり良くなった。
 日本からの開拓民ばかりか、「毎年百万人以上」の中国人が満州国へ移住した。 
日本人は僅か二%足らずのこの国へ、満州産業開発五カ年計画は、日本の一九三七年歳出予算の倍近い規模であった。
日支事変の拡大
 ところが一九三六年末、蒋介石は、部下で熱狂的反日主義者の張学良に西安で拘束され、周恩来との会見がなされた結果、国共合作(国民政府軍と共産軍が協力し、日本に当たること)を約束させられた。
 共産主義を嫌悪する蒋介石がこれを呑んだ。相当の脅しによるといわれる。
 一九三七年七月七日、北京近郊の盧溝橋で日中間の小競り合いが起こった。
 激高する日本のマスコミや国民の声にもかかわらず,日本政府も、軍部も、「想像を絶する忍耐」を示した。中国と戦争をすることの無意味を承知していたから。
だが、次から次へと、日本を戦争に引きずり込むため、支那人であるが中国共産党員の仕業、と思われるテロが、特に上海を中心に行なわれた。
 政府及び陸軍参謀本部は、中国との戦争に気乗りしなかった。それは、いつの日か、やがて、ソ連共産主義が宿敵として、日本は戦争をせざるを得ない。また、日本へ敵意を募らせている米国との戦争を想定し、その日まで、兵力を温存し、強化しなければならないと覚悟していたから。その間に折角建設したばかりの満州国をして、対ソ連、対米国、の為の総力戦に備え、確固たる後方基地に育てなければならなかったから。
 満州事変を起こした石原莞爾は、参謀本部作戦部長であったが、中国との戦線拡大には強く反対していた。それゆえか、盧溝橋事件の後、関東軍副部長に左遷された。
鬼才、石原は日中戦争が泥沼化するであろうことを、しっかりと見抜いていた。また、日本政府は、そして陸軍参謀本部は、何としても和平を達成しようと画策していた。
ところが、近衛首相は一九三八年(昭和十三年)一月、「国民政府を相手にせず」という声明を発して、自ら和平工作の道を閉ざしてしまった。
多田参謀次長は、突然の変心に涙と共に抗議したが、近衛首相は聞く耳を持たなかった。共産主義者で、側近でもあった「尾崎秀実」や、「西園寺公一」などの働きかけだと云われ、共に「ゾルゲ事件」に連座し逮捕された人達。近衛声明が、日本を最悪へと導いた。

大東亜戦の緒戦
 日本軍と国民政府軍が疲弊し切ったら、ソ連の方から満州へ侵攻して、「日露戦争の復讐のチャンス」が生まれ、さらに共産主義を中国全土に広める。結果はその通りとなった。
 毛沢東の共産軍を整備強化しておけば、国民政府軍を叩き潰すことも可能になる。
 こんな読みで、「日本軍と国民政府の戦争」に、和平工作のすべてをブチ崩すため、蒋介石政権へ、飛行機九百二十機、自動車一千五百十六台、大砲一千百四十門、機関銃九千七百二十丁を送った。その上志願兵としてパイロットまで送った。――スターリンの陰謀を知らず、蒋介石は大いに喜び、「中ソ軍事同盟」を結び、支那事変を引き延ばした。
 近衛首相側近が、スターリンとの戦争続行をさせた。その黒幕こそ、共産主義者であり、日中戦争は蒋介石を倒すまで、徹底的にやるべしと、「朝日新聞」や「中央公論」、「改造」などが主張し、近衛首相もその方向に進んだ。  (『日本人の誇り』 藤原正彦 より)
 米国が日米戦争に先立つ、日中戦争において、すでに中国へ膨大な援助を与えていた。太平洋における唯一の強敵であり、「憎むべき日本」を疲弊させようと企んでいたことは、ソ連共産主義と米国は同じ目的であった点が明らかである。
 その方法として、日中戦争を泥沼化させた。米英による援蒋ルート(三方法)を封じることは日本として、止むを得ない措置であった。南方からの支那大陸へのルートである。
一.香港ルート 二.仏印ルート 三.ビルマルート――日本軍が東南アジアを侵略したと、よく云われるが、その主たる理由は、この援蒋ルートを潰すためであった。
百万近い日本軍を中国大陸に貼り付けさせ、日中間に膨大な「犠牲を出させ疲労させた」のは、日本や中国の意志ではなく、「米・英・ソ」の、次の「大東亜戦」の準備であった。
 東京裁判で、日本を侵略国家と断罪した当の本人マッカーサーが、一九五一年の米国上院軍事外交合同委員会で、次の如く述べる。
 「日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼等は綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他、実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものが、アジアの海域には存在していたのです。
 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が、発生するであろうことを彼等は恐れていました。したがって、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」すなわち、日本にとって大東亜戦争は自衛戦争であった」と証言している。日本人はこれらの真実を知るべきだ。





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