_塚本三郎元民社党委員長小論集_

戦後二十年の日本    平成二十四年五月下旬    塚本三郎


 今日の日本社会は、是非は別として、占領政策が影響していることは否定できない。
 麻布市兵衛町にあった「外務大臣官邸」のまわりを散歩しながら、吉田茂氏はステッキで、空爆の結果、東京の焼け野原と化した荒野を指して言った。
 「これが、いつになったら片付けられて、家並みが揃うであろうか……二十年後では無理かもしれないし……いや必ず立ち上がる。日本人は、しっかりしている。いまに必ず日本は立ち上がる」。――吉田は強い口調で言ったという。
 「陸軍が戦いで負けた分は、舌一枚で取り返してやる。オレは外交官だからね」当時の心境を、娘の和子は私にこう語った。                (麻生太郎 談)
昭和二十一年五月、吉田茂は外務大臣官邸を出てGHQ本部に向かった。
 マッカーサーに食糧危機について陳情した。
 四百五十万トンの食糧輸入がないと餓死者が出ます。吉田は農林省の数字を口にした。マッカーサー元帥はその数字を聞くなり、GHQが掴んでいる七十万トンと、余りにも大きく違う。マッカーサー元帥は「日本の統計は、戦争中から、どうも信じ難い。今回の数字が間違っている」と。
 吉田は、「戦前に、わが国の統計が完備していたならば、あんな無謀な戦争はやらなかったでしょう。また我が国の統計が完備していたら戦争に勝っていたかもしれませんね」。
 マッカーサー元帥は、吉田氏のユーモアを解し、声をあげて笑った。マッカーサー元帥は七十万トンの供給を約束してくれた。
東京裁判は長きにわたって日本を毒してきた。
 東京裁判で唯一人「日本は無罪である」と述べたインドのパール判事は、「東京裁判は原爆よりも、日本人の精神を長き世にわたって毒す」と言った。
 東京裁判はマッカーサーがつくった「極東国際軍事裁判所条例」に基づいて行なわれた。その条例は国際法や慣習法、条約などは、いっさい無関係であり、ただ裁判を行なうという「至上命令」であった。
 この法は、どの国際法の条文にも基づいていない。犯罪を遡って裁くことは「事後法禁止の原則」に抵触する、即ち法律は制度以前の事実に対して、遡って適用してはならない。それは文明国と非文明国とを分ける、重要な目安となっている。マッカーサー元帥は非文明国人だ。彼は職責上、それを承知の上で行なったようだ。
 講和条約が成立した後、昭和二十八年(一九五三)特別国会で、全会一致で戦犯を救済した「改正遺族援護法」が成立した。戦争に負けても大和魂は負けていなかった。そして、
東京裁判等で戦犯となった人間を、「通常の戦死者と同様に扱う」ことを、社会党、共産党を含む全会一致で決定した。勿論、年金も同様に支給することにした。
日本国憲法の制定は、占領軍にとっても、日本にとっても必要であった。
 改正に当たって二つの重要課題があった。当時、日本の置かれた立場に立って吉田茂総理は、その第一は「天皇制の存続」であった。――もう一つは「戦争の放棄」であった。
 マッカーサー元帥は、かねてから天皇の地位について、深い考慮をめぐらしている。
 マッカーサー元帥が日本に進駐するにあたり、降服を円滑に実施させるためには、天皇の力に頼るほかはないと、終戦時の天皇の尊厳を考えいろいろと工夫していた。
 天皇が国民の尊崇の的である以上、天皇の援助なくては、無用の争いを重ねることになる。また、大戦争が終わっても、日本の民主化は偽装であり、日本は、やがて再軍備するのではないか、との不信の声は、極東軍事委員会の中にも根強く在った。
それ等の声を打ち消す為にも、「非武装の憲法」を制定をする必要があるとみた。
 天皇制を守ると共に、周囲の実状から「戦争放棄」を堂々と憲法に記す必要があった。
 憲法制定の五月三日制定の憲法は、占領軍の要請に対して、敢えて吉田茂氏が、意外にも再軍備を否定した。当時の国内情況からも、非難を加える余地は少なかった。
だが、内外情勢の変遷を考慮して、独立後、外敵情勢の緊迫化に備えて、機敏にこの憲法を破棄し、新しい独立国としての新憲法を創制すべきであった。
 にも拘らず、未だ今日までそのまま保持しているから、今日では、憲法記念日を「憲法恥辱の日」と言い換えたほうがよい、との渡辺昇一氏の談も同感である。
 時の総理は片山哲氏から吉田茂氏へと移り、右二項目と共に、「農地改革」即ち従来の地主的土地制度から、自作的土地所有制度に一変させる、画期的な大改革へと準備せしめた。
そして小作農家は殆どなくなり、大部分の農家は「自作農」となった。
対日講和条約は、昭和二十六年一月から吉田茂と、米国のダレス特使との間で行なわれた。
 トルーマン大統領から対日交渉を一任されたダレスは、先ず第一に吉田に迫ったことは、
日本の再軍備であった。これに対して、吉田は「再軍備はとても無理です」食うものもないという、この時代に再軍備なんて通用しない、若し吉田内閣が再軍備をしたら、一日や二日でたちまち潰れてしまう。国賊だと云われてしまうといった。
 時あたかも「朝鮮戦争の最中」であった。再軍備をすれば、たちまち、連合国軍支援のため、日本軍の出陣によって、昨年までの同胞だった北朝鮮と戦うことになる。吉田の真意は国内事情からこれを拒否し名目的に、止むなく警察予備隊七万五千名は準備していた。
マッカーサー元帥の厚意の第一は、今日の日本人からみれば天皇制保持の姿を、元帥の立場としては「許される最大の好意」と支持を与えてくれた。
 第二には、連合軍の一つとしてのソ連軍による、北海道進駐の提案を峻拒してくれた。
 昭和二十五年から講和論議が起こった、その年の五月、ソ連を含む全面講和論を唱える南原繁東大総長を「曲学阿世の徒」(世間におもねり、人気に投ずる言説)と非難した。
 当時の新聞や、進歩的知識人は、全面講和論であった。全面講和(ソ連の賛同)を待っていては、日本の独立は遅れる。吉田首相は敢えて反対意見を押し切って決断した。
日本の戦後史に大きなエポックであった。日本をソ連のように、革命によって共産主義国家にしてはならないと云う、世界への指針と宣言であったと思う。
日米安保条約制定 平和条約調印式を終えたその日の午後、サンフランシスコ郊外の米陸軍基地で「日米安保条約」の調印式が行なわれた。独立の条件でもあったから。
 この調印式には、日本側は池田勇人氏をはじめ全権四名もが出席していた。
 いざ署名する段になると、吉田は、アチソン長官に申し出た。「署名は私一人でしたい、他の全権には署名させない」。
 吉田はアチソン長官に云う「この条約は、日本にとって『将来必ず問題になる条約だ』、責任は、おれ一人でとる。あとから政治をする連中に責任を負わしては気の毒だ」。
 吉田は将来、日本が安保条約をめぐって、内乱じみた騒ぎになると既に読んでいた。
 日本が他国から攻撃された場合、米軍の防衛の義務は明言されていない。また、日本国内の「内乱に対して」、米軍の出動を認めている「内乱条項」もあった。
 それゆえに、責任を池田らに被せるのではなく、自分一人が引き受け署名した。
 大仕事を終え、二週間ぶりに日本へ帰る飛行機の窓から富士山を見た。着陸すると数え切れないほどの旗の波がどこまでも続いた。娘の麻生和子の眼には、吉田の眼鏡の奥が一瞬キラリと光ったように見えた。日本は漸く独立をかちとったのだとの思いであろう。

友愛外交の失敗
 日ソ交渉を行うのは、自分自身が一番適任者だと鳩山一郎氏は思っていた。
 昭和三十一年十月「鉄のカーテンの中に入るから、何が起こるか見当がつかない」この仕事で、自分の長い政治生活に終止符を打つ。覚悟を決めて乗り込んだ。
 鳩山はクレムリン宮殿で「国交正常化されても、ソ連は日本で共産化の宣伝などされては困る」と最初に言明した。ブルガーニン首相は笑って「あなたは共産党が大嫌いなことは、よくわかっています、だから、そんなまねはしません」と答えた。
 日本側は領土問題について――「歯舞、色丹は、即時、日本の領土とする。残る領土問題(択捉・国後)をふくめて、平和条約締結のための交渉を継続する」。
 ソ連外務省は、一時この案を呑みかけた。ただ歯舞、色丹が日本の領土となる時期は、平和条約が発効し、同時に米国が沖縄、小笠原など返還したとき」と云う。
 しかし、この案は、当時ソ連のフルシチョフ書記長が領土問題の文字を削ってしまった。
このような領土問題は、なお主張出来るものと信じ、「鳩山は国交回復」に調印した。
 北方領土四島は、かつて日本がポツダム宣言を受け容れることを承知した時、日ソ中立条約を踏みにじり、不法に占拠したソ連の「火事場泥棒」である。そして、鳩山友愛外交が行なっても、領土間は、五十数年を経た今日に至っても、なお一歩も前進していない。

安保改訂と岸信介
 昭和三十五年六月十五日、国会デモで、警官三百八十六人、学生四百九十五人が重軽傷を負った。国会前に並べた警備のトラック十五台をひっくり返し、流れ出た油に火を点け炎上させた。それを乗り越えて、国会の前庭での、もみ合いデモであった。
 その夜、東大の女子学生樺美智子さんは双方の衝突で死亡した。デモ隊の勢いは激しく、総理官邸、岸総理私邸の周りは、「岸を倒せ」の怒号の繰り返しであった。
 条約改訂を祝って、国賓として来日の為、フィリピンまで来ていた米大統領・アイゼンハワー氏の訪日延期を要請した。勿論、岸信介総理は、自ら辞意を決意したであろう。
改訂した新安保条約とは、――従来の米軍に基地を提供するための、片務的な条約から、日米共同の、双務的な条約に改正する次の如き要点であった。
◎ 日本国内の内乱に対して、米軍の出動を認めている「内乱条項を削除」した。
◎ 日本を米軍が守る代わりに。在日米軍への攻撃に対しても、自衛隊と在日米軍とで共同で防衛行動を行なう「日米共同防衛の明文化」である。
◎ 在日米軍の配置、装備に対し、両国政府の「事前協議制度の設置」、日本の意見を含む。
岸内閣が辞職して、池田勇人氏が戦後の日本経済繁栄の道筋を作った「所得倍増計画」
は、「政治主義」から「経済主義」に政治の重点が切り替えられた。
 当時の野党は、国民所得が倍増出来たとしても、物価が倍増するから正しくないと非難の集中であった。池田の経済主義こそ、繁栄日本の土台となった。しかし同時に、やがてエコノミック・アニマルの評を招いたことは、余りにも皮肉な今日を伴ってしまった。






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