_塚本三郎元民社党委員長小論集_

迷走する民主党政権    平成二十四年六月上旬    塚本三郎


 政治団体の体をなしていない政党が、政治権力の座に就いたとすれば、結局は、個々の利権政治家の、「格好の踏み台」にされるしかない、と政治学者は云う。
 「政治家の踏み台」となった政党は、やがて解体し政界の再編成を期待するのみ。
 だが、愚かなる政治家の集団が、絶対多数を占め、而も極端に大きな権力と、国費を握っているとしたら、一朝にして、この権威と権力を手放そうとはしない。
それが、国益を無視している「今日の民主党政権」のおろかしさだと言いたい。
 勿論、民主政治は国民の自由意志に基づく選択の結果である。この愚かな政党と政治家に、権力を委ねてしまったことを、今日に至って悔やんでいる国民が大多数である。
騙す者も、騙される国民も、良くないことは判っている。それでも次の選挙の機会には、改めて選び直すことの出来る、希望の持てるのが民主政治であると学者は言う。

時の流れは早すぎる
 だが、今日と云う時代の流れと時流は速すぎる。特に周囲の諸外国も同様だ。あと一年待てと、天の声は云うであろう。だが日本の政局は、「あと一年待ったら」、国家そのものが崩壊するか、中国と云う「泥棒の如き国家」に、領土をムシリトラレル心配がある。
 自業自得では済まされない、それ程に心配される、愚かさのつのる現政権である。
 有能な学者が居たならば、今日の政治は「斯く在るべきだ」との指針を示してくれれば
助かる。しかし、百の文献をあさっても、明るい意見は見つけ出せない。
 今日では、民主党が余りにも愚かな政権政党であることが暴露された日々である。
 さりとて、政権を長年担当した自民党も、一旦彼等から、権力を抜き取ってみれば、その自民党の正体も、がっかりする程の体たらくであり、党自体が分散するかもしれない。
 否、そのことを自民党議員そのものが、承知していた。
だからこそ、かつての自民党議員の中でさえ、未知の男、日本新党の細川護煕氏や、社会党の村山富市氏を担いで、政権の維持を策したことは、知る人ぞ知るであろう。
 
 今日ようやく、戦後最初の本格的左翼政党としての民主党政権が出現した。
しかし残念ながら、野党ズレの民主党政権の出現によって、日本の政界は、国家そのものの基本を、全く見失ってしまった。その本質が、三代の首相によって、時を経ずして暴露された。――だが既に、自民党時代にも、その憂いは在った。
左翼政治家の本来の姿を見せ付けられた。かつての野党協力による細川、村山両政権が、僅かの期間ではあったが、日本政界を毒して来た、麻薬の如き恐ろしさを知らされる。
 例えば、「小選挙区制導入」による「劇場政治」の造成現出や、莫大な国費を政治活動費として利用する「政党助成金」の制度創設(一人年三千万円)など。
また、自民党の中でも、進歩派を自称した政権による「謝罪外交」や「南京事件」や「従軍慰安婦」などの問題を、相手の言い分を認める、没国家的行動の日々を振り返る。

 日本の左翼政党が、共産主義政治コミンテルンの手先である、とは信じたくない。
しかし、少なくとも、国政を担当する与党自民党に対して、野党としての立場から、政党を批判するよりも、日本国家そのものを、党と同体だからとして「政権党を批判攻撃」を重ね続けることにより、結果として「反国家的慣性」に、どっぷりと浸かり切ってしまっている。それが「国旗掲揚と国歌斉唱の否定」、その上、
「靖国神社参拝否定」につながって、反権力即、反国家と云う党の体質となっている。
反国家権力を貫き通した政治家と政党が、現実に政権の首座に座ってみると、途方に暮れ、為す処を知らず、自分達の今日までの言動、即ち批判と公約が、こと志と全く異なっていることを思い知らされているようだ。

民主党内紛の原因
 三年前、民主党の選挙公約や、マニフェストは、党幹部としては、国民大衆を騙すつもりでは無かったであろう。しかし、余りにも、無責任であった。国家とは、国政とは、如何なる「責任と義務」が在るのかを、知らなかったことに気付かざるを得ない。
 単なる自由、権利、平等、平和を口ずさみ、その為の政策を唱え、福祉と云う名の「バラマキ」に終始していた、単純な無智を思い知らされた。
 現在の野田総理は、その点を、知らされたことから。結局行き着くところは、理念も、政策も、主張していたこととは正反対の、保守的な、自民党の意見をそのまま追認した。それを丸呑みと評されており、その変節を、少しも恥と思わぬ体たらくである。
 野田総理は、だからと言って反省、陳謝をする勇気は持ち合わせていない。平然と言行の不一致を省みず、堂々と民主党の公約を捨てて、自民党にスリ寄る狡さを持って、政局を乗り切ろうとしている。「自民への抱き付き政策」との酷評が出るゆえんである。

 だが、我慢出来ないのが、小沢一郎であり、鳩山由紀夫であり、菅直人の主な三人である。先の公約を捨てては「党の立場が無い」ではないかと、非難の大声が続く。
 この三人、特に小沢氏の発言は、民主政治の本筋からみれば正論である。
 彼の言動が正論と受け止められないのは、その心中に私怨が内包されているからだ。
政権の首座に居るべき、俺達を除外し、あまつさえ邪魔者扱いをしていると、遂に不満の声は怒りとなり、表面から野田総理に挑み、倒閣さえほのめかしている。
 今日の民主党政権の座を在らしめた中心は、この三人であることは自他共に認める。それなのに彼等を捨て置くのみならず、異端者扱いが目に見えている。
恩知らずの「卑怯な野田総理」だと反主流派の諸君が敵視していても仕方がない。
 一方、野田総理の立場からすれば、一番気にかかる小沢氏側近の興石氏を幹事長に迎えたではないか、その上、閣僚人事もまた、小沢氏指示の如く、多くの人々を登用した。
その上、二人の不人気の男を防衛相に認め、野党から、数々の冷笑と攻撃を受けても「適格な人事」だと、「間の抜けた答弁」さえもさせられている。
かくして、主流と反主流双方の、対立している溝は深まるばかり。
 ここまで来れば、野田総理の一手は、「社会保障と税の一体改革」に政治生命を懸けると言明した以上、これを貫き通し、邪魔な者は切り捨てる。その上、法案が成立しても、成立しなくとも、国会を解散して、信を国民に問う以外に道はない。
 その民主政治の進むべき大道を、総理及び反主流派は、恐ろしくて言い出せない。
議会制民主政治の基本を避けている処に、すべて、答えが出せない混迷の主因がある。
 現在衆議院総選挙を行なえば、民主党は惨敗する、とその結果は世論調査の数字が示している。小沢チルドレンと評される、基盤の脆弱な仲間こそ一番の犠牲者となる。だから、正論を叫びつつも、道理としての選挙を避ける道に憂き身をやつしている。
 小沢一派が、選挙時の公約の大看板を掲げて、野田総理を責めるならば、飽くまでも、その看板通り、民主政治の本義に基づいて総理を責めるべきである。
 小沢氏を中心とする反主流派の人々も、政権打倒に腐心するのみでは、政局は私闘であり、私利私欲で、国政と、民主政治の在るべき筋道を避けている。
この実状を無視し、卑怯にして、国家と、国民の立場を無視した、お互いの権力欲と、延命にのみに関心を露骨に示している。これは政争ではなく、幼稚な利益争いだ。

自民党は捨て身の対応を
民主党は日本国の大黒柱の「政府を背負っている」。背中におんぶしている子供の、息の根が止まることも知らず、夫婦喧嘩に憂き身をやつしている姿は見るに忍びない。
 政権の主柱である野田総理は、たまりかねて、野党の自民党に助けを求めている。
だが党内の分裂を、他党の介入によって切り抜けよう、逃げ切ろうとするのは筋違いだ。だからこそ「先ず党内を治めてから」にして下さいと、自民党に逃げられている。
 民主党内の分裂を、そのまま抱えて、自民党に政策を丸呑みにしたからと、協力を求めていることは、政権政党としての国政を担当する資格がない。
野党に協力を求めることによって、内輪の騒動を切り抜けよう。そんなぶざまな政党の指導者など世間に通用しない。
現在の日本政界の実状は、余りにも情けない。他国からも見下され冷笑されている。

 三年前の誤った選挙結果に原因が在るから、一刻も早く政界の混乱を解消する道は、出直し選挙をすべきは、極く当たり前の筋道である。
 その当たり前の大々事を、避けることに終始しているのが民主党現政権である。
 この国難とも言うべき道を解決するのは、自民党の「捨て身の大策」以外にはない。
私見を述べれば、これ迄に遭遇したことのない国家、国政の危機には、先ず、野田内閣に向かって、必死の決意で「不信任案」を提出する。結果は否決されるであろう。
否決されれば、国会議員としての大任を果たすことは出来ないと宣言し、自民党衆議院総員が、「議員総辞職」を決意し、政局の実情を国民に訴え続けたら如何か?
今日の自民党内には、そのような決断を行ない、党議員総員を纏める指導者が居ないはずはない。また一部のマスコミからの、反対と批判の声が大きく出るかもしれない。
それでも、国家の直面する危機は、黙視するに堪えない。
捨て身の対策こそ、国民の胸を打つ。――これからの一年間の日本の国運は、以後十年間よりも、なお大切な一年だと決断すべきではないか。
議員総辞職を行なえば、国会に居る必要はなくなる。野党議員として、温かい給与の待遇を受けつつあっても、何等役に立つ任務が果たされない。
無能力の議員で居るよりも、憂国の前議員は、裸となって故郷に帰り、国政の在るべき姿を、地元の選挙民に訴え続けるべきだ。
 日本政界は逸脱した「民主主義の大道を守る」。そして、「デフレ解消の為、大胆な公共事業」を行なう。「国土と国境を守るために防衛力の整備強化」を、と叫び続ける。
 自民党前議員をはじめ、全党員が丸裸となり、捨て身の姿を国民の前にさらして、訴えれば、国会に在って述べる美辞麗句よりも、大きな反響を拡げると信じるがいかがか。
 ここまで来れば、自民党の捨て身の行動こそ、混乱した迷走国会の救いの一手だ。
 権力を捨てる者こそ、権力を握る、資格が在ることを悟るべきだ。






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