_塚本三郎元民社党委員長小論集_ _当会支部最高顧問、塚本先生世評_
七分の理と三分の理       平成二十一年一月上旬 塚本三郎 

人間社会には、すべて万全はあり得ない。正しい論理と雖も、七分の理が在ればそれを押し通す勇気が必要で、三分の反対は留保すべきだ。特に、複雑多岐亘る政治の世界では、反対が在るからと云って決定を避けたのでは政治にならない。問題は、政治の舞台で、三分の反対をどう裁き、対処するかを、日本の歴史上の教訓とし述べてみたい。

その第一は、日露戦争の経緯と結末。

その第二は、日本の敗戦後、占領下の東京裁判と日本国憲法について。

その第三は、官僚統治下から民主政治へ移行した、田中角栄首相の事績。

日露戦争

 歴史上、あの日露戦争は、日本の大勝利と自負しているが、決して万全ではなかった。英国と米国の後ろ楯が無かったならば、結果は危うかったと言われる。

英・米両国が、日本勝利の後を支えてくれた、数々の事績が裏付けられている。米国の銀行家から軍資金十八億円余(当時、日本の国家予算の七、八倍)を貸してくれた。

 日銀副総裁の高橋是清は、パリ・ロンドンを廻ったが、何れも起債を断られた、英国の銀行団は、やっと予定の半額の協力であった。それを補ってくれたのが、米国の銀行であった。その代表ジェイコフ・シフは、鉄道王と称された、エドワード・H・ハリマンと提携していた。

 明治三十八年元旦、旅順要塞が陥落した。加えて、ロシア全土にストライキの不穏な動きが強まり、日本の明石元二郎やレーニンたちが、ロシア政府の後方を撹乱した。

三月、血の日曜事件がおき、その上、三月十日の奉天会戦に勝利し、更に五月二十七日の日本海大海戦で圧勝して、ロシア艦隊を全滅せしめた。

 しかし日本は、明治三十八年三月の時点で、児玉源太郎満州総軍参謀長は、これ以上の進軍は不可能だと伝え、「残なし」と訴えた。五月の大海戦によって戦勝国となった時点で「講和につき米大統領に一任すべし」と決め、やがてポーツマス講和会議となった。

 日本が陸とで、ロシアを破った予想外の結果は、アメリカ大統領にとって、衝撃ですらあった。米国も英国も、日本を支援してくれたが、彼等の底意は、ロシアのアジア進出を抑え、その代わりとして、アジア、特に支那大陸での、利権の確保に在った。

 軍資金協力の中心者ハリマンは、日本勝利直後、急いで日本に来た。目的はロシアを追い出して、空白となった満州を中心とする、鉄道の利権を得る為である。

 日本は、ハリマン訪日の目的と、日本支援の米国の本質についての理解が不十分であった。

 日本の桂太郎首相は、南満州鉄道の「共同経営」を桂・ハリマン仮協定で成立させた。

 その二日後、小村寿太郎が帰国し、この仮協定を知って激怒し、破棄せしめた。

 十万人の戦死者と、莫大な戦費を費やした戦果を、南満州鉄道の共同経営で、米国に提供することは、国民の怒りをかい、国家への軍人の忠誠心をも損なうと、小村は主張した。

 既にポーツマス条約で、賠償金をも放棄させられ、樺太の半分と千島列島を得たのみ。

 小村は、ポーツマス講和条約での、成果のなさに心を痛めていた。日本国内では講和条約による利益の少ないことで、暴動が起こり、自身も焼き打ちを招いている。

米・英の要求に、三分の理があると承知して、桂・ハリマン協約を結んだが、結果破棄せざるを得なかった。このことが、日本の運命を大きく変えてゆくことになった。

 つまり日本は、日露戦争の大勝利の支援そのものが協力してくれた、米・英、強いて言えば、ユダヤ民族の野望を、充分に察知出来ず、やがて彼等を敵としてしまった。

 日本の悲劇、第二次世界大戦の歴史は、ここから始まったと思うべきである。

第二次世界大戦

 日露戦争の、日本大勝利そのものが、米大統領にとっては、衝撃的であった。

ロシアと共に、日本も相当の「被害で弱体化」するであろうとの計算があった。ハワイ・フィリピン・グアム等、太平洋を広く西に向って勢力を拡げつつある米国にとっては、日本に対して最大の脅威を与えつつあることを、米国自身承知していたから。

 米国は、日露双方の弱体化を望んでの日本支援という、アテが外れ、支那大陸の利権どころか、西太平洋の危険をも視野に入れざるを得なくなった。

日本と云う恩知らず。そして約束を守らない野蛮な島国。こんな「野卑な非難」で、以後の米国は、日本弱体化に狂奔した。支那、ソ連、そして朝鮮半島をも巻き込んで、満州事変、日支事変、大東亜戦争へと、紛争がもつれ込んでしまった。

 昭和の戦争が、かつて日露戦争で協力し、味方であった米・英、そして敵として戦ったソ連、及び支那をも巻き込み、世界の多くを相手として第二次大戦となった。

 その上、米国は仲間である英国とフランスの危機を救う為にも、また彼等の敵ドイツを攻めるためにも、日本の同盟国、ドイツ攻撃の口実が欲しかったことは言うまでもない。 

 昭和二十年、日本の敗戦後、占領軍は、東京裁判と日本国憲法によって、日本統治の基本を定め、教育勅語を禁じて、日本人の魂をも骨抜きにした。

 敗戦国日本政府は占領軍の邪な主張を、そのまま受けて、外交、防衛の自立国家としての大義を、ひとまず米国に委せ、占領軍に一任せざるを得なかった。

 そのことは、日本人自身が、守銭奴化させられたと言えば言い過ぎか。占領軍を、日本国家の番人と心得、我々は、稼ぐに追い付く貧乏なしを信条とし、働き続けた。その結果遂に勝者米国と肩を並べる経済大国へと、繁栄を築き上げた。

日本は武力の戦争では負けたが、経済戦では勝利した。

 しかし、日本人とて万能ではなかった。戦後の六十年、臥薪嘗胆と呼ぶ経済面での大成功にも、三分の不利が伴っていた。それが国家観の喪失である。当時それは当然で致し方がなかった。むしろ、その方が幸いだとさえ思ったのが日本国民の大半であった。

 配慮すべきは、日本の守護神と自負して来た米国の国力が、徐々に衰退の様相を示していることである。加えて、隣の中国と、ロシアが勢力を盛り返し、日本に対して、理不尽なをむき出して来つつある。まして、韓国まで調子に乗って日本を蔑視しつつある。

 国家としての自立、自衛の必要、不可欠は、周辺の事情と密接な関係が在る。

 敗戦後、日本が軽視せざるを得なかった、経済戦争の勝利の為に残された、三分の理、即ち、外交、防衛の軽視が、国家として、決定的な致命傷となることが危惧される。

 日本人には国家観が失われ、政治家と政党に国家としての自立心が融解してしまった。国家に身命を捧げた靖国神社の神々を軽視し、首相さえ、種々の理屈を並べて参拝しないではないか。それで日本国家は、独立国と言い得るのか。

 残念なことは、既に侵略を重ねつつある中国や韓国の威圧に迎合している政党と政治家の態度である。而もその裏には、マスコミの容共的雰囲気さえ、支配力を示している。

個人として優れたユダヤ民族とて「シオニスト」として、祖国の建国に奔走している。イスラエルの「戦争と死」を恐れない姿を見習うべきではないか。

田中角栄の政治手法

 戦後、吉田茂、岸信介、池田勇人、佐藤栄作等の東大閥のエリート官僚に対して、田中角栄という学歴なき逸材が出現した。

彼は官僚的手法では、思いも及ばなかった政治手法、「日本列島改造論」を、手掛けただけではなく、それを可能とする税制、即ち「受益者負担」の各種の税制を決定した。

特に自動車に対する目的税は、道路財源として、忽ち日本国中の道路を拡大、整備舗装し、車によって、日本中の大都会と地方を結ぶ大事業を達成せしめた。今日ではその税は、自動車と道路に必要な量を超え、一般財源にまで転用することとなった。

 日本の政界は、戦後二十数年に亘って、行政経験の深い高級官僚が首座を占めていた。そこへ田中角栄の登場によって、官僚の上に立つ「政治家の実力」即ち人事権と、立法権による、諸制度の支配が確立された。ここに初めて、民主主義の政治が第一歩を踏み出したと言うべきである。立法作業と、官僚を支配する人事権は、国民に大きな利点と発展をもたらした。即ち陳情政治と呼ぶ、庶民の声を活かす道が活発となった。

だが、その裏には利権を伴うことも少なくない。民主政治は洋の東西を問わず、多少の利権による汚職は消し難い。しかし、陳情政治こそ、真の民主政治として機能している。

日本の憲政史上、稀有の政治家田中角栄の、その主たる業績を認めながらも、結果として重大な業績を否定するが如く、「汚職の首魁」として、葬られている。

 その汚点、即ちワイロの再発を禁止すべく、「政治献金禁止」という、民主政治にとっては、致命的手法を選んだのが、今日の日本の議会政治である。

 政治活動には、相当の活動資金は無視出来ない。それを禁じ、清潔な政治の実現と称して莫大な政党助成金を、議員各一人宛、平等に(年約三千万円)の年額を支給している。

 代表者となった議員の、活動と能力は千差万別である。しかし、国から支給される議員の給与は別として、政治活動費が、一人一律で良いのか。政党助成金の制度が、如何に日本の議会議員と政党の、根性をマヒさせて居るか心配である。

 政治が国民の為であるならば、政治家と政党を支持し育てることは、国民の権利であり、義務でもある。それは単に選挙の際の投票行動のみではない。それ以前に、政治活動に対して、自らの信ずる政治家個人と政党に、自分の持てる力の一部をもって協力すること、それが後援会活動であり、資金の提供でもある。私財を投じて献金する人は、政治に対する熱心な監視者でもある。

 その大切な献金を一切禁止して良いものか。献金のすべてを悪の根源とすることは、国民を罪人視する、否、献金すべてを浄財ではないと、断罪することになる。

汚職には厳しい罰則規定があり、多くの議員に適用されている。

 真の政治らしき姿を表わした田中角栄の、治政の負の一部をとりあげ、汚職の代表と非難し、やがて政治献金の禁止にまで及んだ。政治献金と政党助成金の何れが七分と三分か。

付言しなければならぬことは、献金禁止の代わりに、献金と同額以上の政党助成金を、お手盛りで作ってしまったことである。政党も政治家も、今日では、国家と国民の立場よりも、自らの地位と、権力の座を占める為の政争に、奔走している姿は呆れ果てる。

国家観の喪失と、政党助成金投入に頼る国会議員に、政治家と政党の資質が問われる。