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_塚本三郎元民社党委員長小論集_ |
_当会支部最高顧問、塚本先生世評_ |
智能と精神のアンバランス 平成二十一年四月下旬 塚本三郎
近所に在る遊園浴場の露天風呂で体を休めた。
休日の午後で人は混んでいたが、ゆったりと、温水にひたって空を眺めていたら、白い半月が真っ青の天空に浮かんでいた。遠い遠い空に浮かぶあの月を眺めて、つい思い出したのは、月面に人間が辿り着き、歩いている姿を、テレビで見た当時のことである。
最も早い飛行機で飛び続けたとして、月面に辿り着くのに、およそ八十年を要する、と科学者が計算してから、僅か数十年を経た後の出来事であった。
宇宙を飛ぶロケットで、難なく人間が月面に辿り、その地上の石を持ち帰ったと報ぜられて、人間の能力の素晴らしさを思い知らされた。
ガリレオ・ガリレイが、地動説を唱えたことは、既に常識となっている。
太陽が朝から夜にかけて、我々の上を、東から西に回るのが実感であって、地球自体が回っていることは信じ難い、それが生活実感である。
地球が回っていれば、それなりに我々の周囲の物も、ついて回るはずだ。それは微動だにしないのに、なぜ一日に一回転もするのか。「それでも地球は回る」と叫んで獄に繋がれたガリレオの学の深さと信念の深さに敬服する。
地球は、地上のすべての物体を、そのまま抱えて動くから、人間も、否すべての物体も、空気までも足下の大地から動いているとは実感出来ないだけである。
それは地球そのものに「引力」があるから、一緒に付いて回るのだと学んだ。
その「引力」と呼ぶ地球の力を利用して、人間はあらゆる科学を発見、発明し工作した。また地上に在る物質をも、人間生活に役立てるべく変質させ、利用したのが「化学」でもあった。そして地上に積み上げた高層建築物も。逆に空を飛ぶ飛行機も。地球や太陽の持っている引力を利用する、また逆利用することの出来る偉大な能力を人間は発揮した。
それは人間自身の力ではなく、天と地の力を活用してきた「人間科学」の歴史であった。
さて、これからも、科学はどれ程に発展、進化するのか、楽しみであると共に、恐ろしくもある。そして我々の生活に対する価値観も、変化するに違いない。
魂は成長したか
日本には、四季おのおのに春夏秋冬、気候の変化がある。それに沿って農作物を生産し生きて来た。日本人は当然のこととし、神の恵みに感謝する農耕民族として育てられた。
日本人の魂が、四季の変化に根付いて習慣づけられて来たからこそ、日本人特有の神の道、即ち自然を神と崇める宗教が芽生え、村々に神社が祀られて今日に至っている。
それと全く同じ「自然思想の仏教」が伝来して、聖徳太子以来、神と仏の人生観、国家観、世界観が合一され、「因果応報の思想」として約一千五百年を経、日本宗教史となる。
しかし、人間の「こころ」は、相変わらず進歩していない。欲望も、怒りも、愚痴も、良心に基づいて活用すれば、何れも大きな活力となる。されど利用される方法は、良心と共に、邪悪にも働く。頭脳と、精神の発展は、同じように成長し続けられないものか。
科学は、後戻りすることなく発展しているが、人間の「こころ」は、頭脳と精神は、各々別々に働く宿命を持って生まれた。人間は頭脳の働きと比べて、魂の進歩のおくれの開きが、余りにも大きい処に悩みの深さに気付く。
生きるための物質の恵みは何よりも大切である。それが為に、身を削り、命を縮めても、努力を重ねる。だが、その得た物質には、受けとりかたによっては「同じ物」でも千差万別である。金殿玉楼に住む長者と雖も、その心が貧しければ、逆にめざわりともなる。あばら家に居ても、心豊かなれば、すべてに優る。
それゆえ「物質の富」と並行して、「身体の強健」と「地域の平和」と、またそれ以上に、「心の平穏」を望む闘いが人間の歴史でもあった。
ゆえに人間生存の柱は、「心の在り方」であることは、唯物主義者と雖も否定しない。
宗教が、重大な生きる拠り所となっている。否、宗教が目的としている人間の「心を育てること」を、生きる為の道と成し、様々な聖者や偉人が出現した。
釈迦も、キリストも、マホメットも。そして、孔子も、孟子も、老子も、様々の経典、聖典、聖語を残している。人間の生きる為の経典や聖典が、その国を中心として、民族を育て、支えて来た歴史は、大きな足跡を残している。
人間の持つ欲望や感情が、「良くも働くし、悪しくも働く」。大きなエネルギーであるから、それを最大限に良い方向に活用する、その働きの根源に宗教があった。
一休(後小松天皇の落胤、辞世の一句 一四八一年)
この世にて慈悲も悪事もせぬ人は さぞや閻魔も困りたまわん
極楽は十万億土とはるかなり とても行かれぬ わらじ一足
天には摂理が在る
一体、宗教の根本をなす教義とは如何なるものなのか。神とは何者か、仏とは何者か。
地上に住む人間にとって、地球と太陽の存在なくして、地上の人間は生きることが出来ない。そうであるとすれば、仏教で説く因縁果報の論説からすれば、天は明確に、正邪を判別してくれるに違いない。それが天の摂理であろう。
時が正邪を判別すると信じたい。否信じなくてはならない、それが信仰である。
ただその真理が、信じ難い理由は、眼の前で、その経過と結果が示されないことである。科学実験のように、まず経過が、眼の前に見る如く判別出来ない。まして、「結果はこれだ」と示していても、各人の「行動する縁」によって結果が異なるから、受け取る者にとっては、余程の経験を経た人か、或いは聖人でなければ、本人に悟ることは難しい。
因縁果報が、大自然の哲理であると信じて来た「農耕民族」の日本人は、明瞭に結果を予測して育った民族である。それは実りと云う結果だけではなく、その成長の経過も眼に見えて来たからであろう。
それでもなお、我々の人生経験と生活の中では、因縁と果報は、頭脳としては承知していても、こころの中では信じ難いし、認め難い。それが凡人である。
宗教について私は、仏教以外殆んど知識を持って居ないから、他の宗教を論じることは出来ないが、仏典の一部を紹介すれば、次のようになる。
人間生活は、時代の経過と共に発展、拡大してゆく、その時期を三段階に分けている。即ち釈迦滅後一千年間を「正法時代」、一千年から二千年の間を「像法時代」、二千年以後を「末法」万年と見通している。
釈迦在世当時は、ひたすら自然の下に活かされており、大自然の働きそのものが、個々人の生きる道として、すなおに生きてゆけた時代の一千年間を、「正法時代」と呼ぶ。
一千年を経過する頃、それぞれ、質の異なった集団が出来て、主に民族毎に、自然の力を単なる受け身から、積極的、合理的に、活用する能力を備える時代となる。
欲望や感情が、人間を支配することが極めて大きくなり、善と悪との双方何れにでも働く。ゆえにその力が、悪に向うことを抑えるための心の修行が必要となる。
その力を、一つの正しい方向に活用する為に、生活体制を、形の上で統一する。まず「形から行動を統制する」。礼儀、規律、秩序等々。それが仏教の入り口である。
形から心を正す
人間の心は、その場所の雰囲気と、行動の形式によって左右される。「形から心を正す」。生活の中に活かすその時代を「像法時代」の到来と予言している。
仏教が日本に到来したのは、この第二の時代、即ち像法時代であった。大殿堂、堂塔を建立して、参拝と禅定のための舞台を建設する。その目標は大きく美しく、また尊い本尊の姿、諸仏、諸菩薩の像を彫刻する。仏画を掲げて、仏を眼に映る姿として尊厳を示し、こころの養育、練成の糧とすることが盛んに行われて来た。
現代は、仏教で言う「末法」と呼ぶ、三段階目の時代となった。
「宗教はアヘン」と称えたのは共産主義理論を広めた、カール・マルクスであった。彼がアヘンだと指摘し、宗教を敵討しなくとも、人間の欲望や感情は、倫理、道徳では律し切れない程に強烈な能力をもって、人間社会を混乱の社会に侵してゆく。
科学の進歩は無限に拡大され、人間の底なき欲望と弱みに強く働き、逆にそれを活用し善用する人間の理性は、余りにも無力である。
時代の指導者は、それゆえ国家単位で、自分の国が「滅亡する恐怖」さえ予測される時代となった。人類の滅亡か、或いは大平と浄土実現の時代となるのか。
国民各人の心の中での争いと共に、国家指導者間の権力の争いでもある。詩人「啄木」は言う。一人一人の心の中に一つずつ囚人が居て、うごめく悲しさ(啄木)
武士は食わねど高楊枝
指導者は、まず自身を修める。身心の統一を第一とする、それが江戸時代に築かれた武士の嗜み。決して「財にとらわれない」。財と産は商人の道であって、武士とは無関係。
内を治める武士が、支配者としてのプライドを持つ、それが武士道であった。
権力及び威力は、財産とは全く別の世界であった。
富と財は「商人の道」であり、庶民の道であるから、そこには全く自由の庶民文化が、「日本文化」として独特の「大衆化」「大衆芸術」を築いた。
文明開化と称する明治維新は、欧米の文化がグローバルとして、また脱亜入欧として、日本に流入し、時代を風靡した。それは眼に見える、物質文化の素晴らしい乱入と共に、眼に見えない、日本人のこころの文化を濁らせて、大切な心がうすらいでしまった。
日本人と外国人と、大きく異なるのは、眼に見えぬ処にも心を配ることだ。欧米人は、そんな細かい処はどうでも良い。大事な処さえ、キチンとやっておけば良い。この違いが、日本製品が優れているという結果を招いている。(日本製品の耐久性と故障が少ない)。
物質文明と精神文明とは、一体でなければならぬのに、先述の如く、物質文明は、後退がないから前進あるのみ。しかし、精神文明は、常に、生まれた最初からの出発だから、教育や環境が支配する。その上、物質の文化を、どう受け止め、消化するかは、人間精神が主人公である。所詮、支配者の優劣は、こころの優劣で決せられる。
日本人の周囲には、歪んだ思想、歪んだ治政の国々が控えている。日本人は、「本来の武士道」を確立する時代が来た。それが末法の処方箋である。
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