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_塚本三郎元民社党委員長小論集_ |
_当会支部最高顧問、塚本先生世評_ |
民主党は国家の基本を 平成二十一年六月下旬 塚本三郎
公共事業は金のなる木か
六月十九日、東京地裁の公判で西松建設の、小沢一郎氏側への違法献金事件は、田中元首相のロッキード事件に比べ、スケールは小さいかもしれないが似ている。岩手県と秋田県では、小沢事務所が、公共事業の落札業者を指名する「天の声」を出していたという。
西松建設の前社長の供述調書では、違法献金は「小沢先生の歓心を買い、実績を挙げるためのものだった」としている。
公共事業を牛耳ることで、政治資金を得る。今も古い政治の実体が、たった一日の公判で赤裸々に明らかにされた気がする。
違法性を否定する小沢氏や、民主党は、逆に検察やマスコミを批判してきた。しかし公判で明らかにされた古い体質までは否定できるだろうか。 (産経新聞 六月二十日)
民主党は、世論の厳しさに堪えかねて、遂に代表を鳩山由紀夫氏に切り替えて、来るべき衆議院選挙に臨む体制を整えた。
政治家にとって、公共事業に手を入れることは、地元の代表として頼もしい存在である。公有地の払い下げ、道路の建設、会館等のハコモノの建築、何れも財務省の限定された予算の中から、優先順位の中に手を入れることである。
山村に在っては、ダム工事などは大変な予算が必要である。ここの仕事の予算は俺が持って来た金だから、俺の言うことを聞け。と発注担当の官僚に威令を示す。
昔は○○先生が、と直接、議員の名を示して存在価値を豪語した。今では「天の声」と言うらしい。
私も、その時々に、地元の陳情を受けて、予算を獲得して、地元の役に立ったことも屡あった。断定し得るのは、私自身が口添えしたが為に得た予算については、断じて口出しをせず「天の声」として、どの会社が、仕事の発注先になったかは、一切知らない。
時々に、業者から、その仕事を受注したいとの陳情もなしとしなかった。
けれど、断じて「声を出さない」。自分で協力して予算をとり、出来上がった仕事、即ち完成した後の、道路や会館に、集会のために足を運んだことがあっても、「ここの工事は誰がやったのか」と、完成後も、一切尋ねたことがない。
知れば、思わず、自慢げにそれを口にしかねないから。
「美しいバラには棘がある」。お世話をすれば、人情としてお礼が返って来る。それはしく有難いことである。とりわけ「政治献金と呼ぶお金」は、政治家にとっては最良の花である。だが、余りにも美しいが為に、身をも誤る場合が多い。
とりわけ、土木、建築の予算に伴う仕事を持って来た時には、一切口を利かずに、専ら知らぬ存ぜぬで逃げて来たのが、私の代議士生活であった。
政治献金と政党助成金
政治献金が禁止された。なのに資金規正法違反として、民主党代表小沢一郎氏の、公設第一秘書、大久保氏が突然逮捕された。
おやおや、未だ政治献金が、団体間で迂回すれば許される逃げ道があったのか。
さらに小額とはいえ、資金募集のパーティーが許されているのかと、驚いた。
小沢氏だけではない。自民党議員の名も数名ある。
部下であるべき官僚を、お上と崇め、自分達の代表を、公僕とさげすむ社会は、果して本来の民主政治なのか。議員のお金集めが、代表者を卑しめている。
国会議員はこの十年来、公設秘書も二名から三名に増員し、通信交通費も、月額実費として二十五万円を、四倍の百万円に増額したではないか。
政党助成金をはじめ、すべてがお手盛りである。
勿論、国家の運命を握る国会議員だから、幾ら高い給与と待遇を与えても、国家の為ならば惜しくはない。
だが給与や待遇を多くすれば、良い政治が出来るとは限らない。むしろその待遇の改善こそ、愛国の人を集める力となるよりも、逆に卑しい人達の欲望のになっておりはしないか。
国家にとって最も大切な任務は、外交であり、防衛であり、教育である。
今や、日本の国政は、この重大な、第一の任務を論ずることが少なく、選挙戦をねらっての大衆受けする、福祉や減税に意を注いでいる。
日本の国会に政治が無くなったと、愚痴る有識者の声を何と聞くのか。
田中角栄の時代と異なって、今日では、企業からの政治献金は禁止されている。その代わり「政党助成金」という名の政治活動資金が、大きく政党に支給されている。国民一人宛、コーヒー一杯分と計算して、年間約三千万円(国会議員一人あたり)である。
一年生議員と雖も、全員が同額である。
政治献金が、公共工事の口利きとして受けた謝礼として企業からの政治献金が、今日まで余りにも「汚職マガイの活動が目立った」。その結果、献金は禁止となった。
政治献金を禁止した代わりに、政治活動に必要な活動費を、国民の税金から一律、同額を支給することは、立法の趣旨としては不当とは思われない。しかし、運用の仕方によっては、客観的に判断すれば、今日では極めて悪い制度に変えたと思う。
制度そのものを非難することは、当を得ないかもしれない。しかし、今日の運用は、極めて良くない方向に悪用されている。
地位と待遇が良くなれば、それを目的として、代表者となり議員を狙う者が出て来る。
一体、国会議員や、地方議員の地位を得た、有権者の代表は、云うまでもなく、まつりごとに携わる公の代表であり、代弁者である。だからこそ、偉大なる権力が与えられ、それにふさわしい「地位と待遇」が備えられている。
今日の政治の世界は、目的と手段が転倒しておりはしないか。選挙も、地位も、待遇も、目的に至る手段である。しかし、大衆は、その様な高邁な判断力で一票を投じた人ばかりではない。民主政治の危うさがそこにある。
前に送った私の文章(六月上旬)の末尾に、私の危惧の念を綴っておいた。新聞、テレビの報道をみれば、政権を担う自民党の内部の乱れは、絶望的にみえる、さもありなん。
党内抗争ではないが、党内各議員の意見の不統一である。とりわけ、かつて「自民党をぶっつぶす」と、元首相小泉純一郎氏は投げかけた。郵政民営化の問題の一つ、「かんぽ」の資産の一部売却で、テンヤワンヤである。ほんとうに、つぶれるかも?
民営化後初めて、問題点が事件化したことが、党内に火を点けた。
民主党は国家の基本に帰れ
麻生首相には、もはや統治能力が無くなったと、マスコミは冷たい意見を放っている。「小派閥で、お坊ちゃん」首相は、自分から小細工をしない。しないがゆえに、逆に国民の眼には小細工をしているやに受け取られる。政治とは妙な舞台だとみる。
もうこうなれば、思い切って、「野党民主党に政権を渡してみたら」との気持ちを抱くのが国民の常識となっている。この空気はもう消しようがないだろうか。
民主政治は与党と野党が、ほど良く政権を交代する処に特徴がある。それで良いのか。
自民党への不信、民主党への不安と記して、その各々の要点を、前の私の小論で述べておいた。とりわけ、自民党の不信よりも、民主党への不安のほうがより心配なのは国家の生命線である、外交、防衛、教育、そして、日本の伝統文化を軽視している点に在る。
省みれば、民主党内には、かつて、私と一緒に議会活動を重ねた有識者が沢山居る。
君等は外交、防衛、教育こそ政治家の生命と信じて、一緒に活動して来たではないか。今もその信念は変わって居ないとみる。なのに、君達はなぜ声をひそめているのだ。
次の選挙で生き延びる為、保身に憂き身をやつしているように見えて仕方がない。
日本の直面する課題は、国内問題だけではない。
二十一世紀、日本の最大の課題は、強大化する中国への対応である。
同盟国米国は、近年中国に傾斜し、日米間で、中国への距離に違いが生まれ、拡大しつつあるように見受けられる。
日米安保条約五十周年を来年に控えて、日米同盟は強化されるのか、それとも中国の台頭の前に衰退するのか。
このままでは、民主党政権になれば、後者に就くと心配する。否、自民党内でさえ、中国へ、心を寄せている議員が少なくない。
日本国が、米国との同盟を強化することと、中国へなびくことでは、国家の運命は、天と地程の差が出ることを、自覚する時が来た。
極論を云うことは早いだろうか。万一今日の中国と組んだならば日本は、やがて、チベットや新疆ウイグル自治区と同様になることを承知なのか。
国民の心は既に自民党から離れている。だから国民は、民主党に日本の命運を託したがっている。それなのに民主党は、国家の基本問題に触れようとしない。意識的に議論さえ避けている。
外交、防衛、教育等に深入りすれば、党内の対立と分裂を招くからだと、憶測する。
鳩山代表、岡田幹事長は、俺達の決心が、民主党だけではない、日本国家の運命を左右するのだと、自覚しているはずだ。それなのに、今日に至るもなお君達は、分裂を避けたいと配慮しているようにみえる。
だがそれは間違いだ。
分裂しても良い。俺達は、党代表である以上に、「日本の国運を担う政治家」であると、国会議員の原点に帰って、蛮勇を払うべきだ。
批判精神に徹し切った一部の左翼の人達が離反してゆくことに気を遣うな。民主党内には、自民党に劣らない、外交、防衛、教育問題に情熱を燃やしている議員も少なくない。それを勇気付けるか、それとも無視するのか、問題は代表者の決断に懸かっている。民主党が正しい政党になった時、国民は安心して政権を、委ねてくれるはずだ。
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