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_塚本三郎元民社党委員長小論集_ |
_当会支部最高顧問、塚本先生世評_ |
立正安国論に学ぶ 平成二十一年七月下旬 塚本三郎
天災は治政の乱れから
日蓮上人が立正安国論を、時の政権、北条幕府に奏進してから七百五十年にあたる。
日蓮がこの立正安国論を展開するには、まず釈迦が説いた経典を基としている。
法華経。涅槃経。金光明経。仁王経。大集経。薬師経などを引用して、単に自説を展開しているのではない。
今から約七百五十年前。都の鎌倉で北条時頼が、天下の権力を執行していた。
当時、鎌倉では、庶民の寄進によって大きな寺が続々と建てられ。五穀豊穣、国家安穏の法会が営まれ、街中に読経の声が絶えない。それ程に仏教が全盛と思われているのに、なぜ、末法の到来を告げる、悲しむべき現実が襲来して来るのか。
立正安国論の冒頭に、『天変、地夭、飢饉、疫痢、あまねく天下に満ち広く地上にはびこる。牛馬にたおれ、骸骨路に充てり』とかかれている。すべてが悪い方向へ、雪崩を打って進んでいる。乞客(乞食)目に溢れ、死人眼をおほうばかり
天変・地夭・非時風雨によって、人間が苦しむのは、人間の心と、政治の施策に誤りがあるから起こる現象であって、我々と無関係に天災が起こるのではない、と説く。
大きな寺が建立され、読経や祈祷が盛んに行なわれたとしても、その根本には、我々自身が、災難を起こしている、どこが、天の定めに反しているかを、反省する必要がある。
仏法は体、世間は影
仏法の教えが本体であって、世間に現れる諸の現象は、その、その本体に映る影でしかない。だから先ず本体である、釈尊の教えに基づいて、信仰が正しく行われているか否かを省みる必要がある。当時の日本は、すべて、仏教中心の教育であったから。
仏教全盛時代に、最悪の天然現象が重なって起こるのはなぜか。そこから出発しているのが、立正安国論である。
『経文を開きたるに、世皆「正に背き、人悉く悪に帰す」。故に善人は国を捨て相去り、聖人は所を辞して還らず。是を以って魔来り、鬼来って災起り、難起る、言わずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず』。
今日の日本政界も同様である。日本人の中には日本の現況と将来を憂うる、そして志の
在る立派な、人格者は決して少なくない。
だが今日の現況では、そのような立派な人達は政治の舞台には出る気が起らない。
その意志があっても、政治家になるには、歪められた人達に迎合しなければならない。
また、現に政局を支配している人達は、国家、国民の為よりも、自分達の栄誉と権力奪取
の権力亡者ばかりで、口で国民の為と言いながら、党利党略に終始しているから、聖人は
国会や、政界には出てくれない。
『金光明経に云く、其の国土に於いて此の経有りと雖も未だ流布せず、捨離の心を生じ、聴聞せんことをねがわず、この甚深の妙法を聞くことを得ず』とある。
現代にたとえれば、明治二十二年に制定されて、終戦まで続けられた立派な「教育勅語」という教えが在って、日本人の魂を築き研いて来た。それは独り学校教育の舞台だけではない。日本人の家庭生活から、社会、団体、職場、それぞれの舞台で、活かされて来た。
しかし、敗戦後、それが日本人の魂を消し去る為に、占領軍の命令によって、日本の国会自身で廃棄を決議した。当時としては、それも止むを得なかったとしても、独立後、まず日本人の魂の独立を期する為に、「教育勅語の復活」を行なうべきであった。
それを反省し、今日漸く復帰させよとの声が溢れつつある。だがそれを妨害する声が、マスコミを中心に、大きな壁となって、めざめた人達も、声をひそめてしまった。
その結果、日本の歴史上、経験したことのない、乱れた家庭、社会は、眼を覆うばかり。
『大集経に言わく、仏法実に隠没せば、鬚髪、爪皆長く、諸法もまた忘失せん。』
(民衆の髪毛が長く、爪を長くしている風潮は、仏法の消えたしるしである)
日本の街を歩けば、髪を長くした女性の姿が目立つ。肩まで、否背中まで垂れ、自分の顔さえ半分は隠れて、それが美人の装いなのか。
髪の色も、染められている。手の爪から、足の爪まで装飾している。本人は全く他意なく、美を装っているに過ぎないようだ。最近は、男性もまた、女性に負けない程に髪を長くし、髪を染めた後姿は、男、女の性別もつきかねる。異様な姿がテレビを彩る。
『所詮、天下泰平に国土安泰ならんことは君臣のねがう所、土民の思う所なり
夫れ、国は法に依って而して昌へ、法は人に因って而うして貴し、国亡び人滅せば、仏を誰か崇めべき、法をば誰か信ずべけんや。先ず国家を祈って頂らく仏法を立つべし。若し災を消し、難を止むる術有らば聞かんと欲す』
立正安国論の結びの叫びである。(国の政治こそ、国民の一番大切な任務だ)
『正嘉元年の八月大地震を見て之をかんがえた。その後、文応元年、大明星の時、いよいよ、この災の根源を知る。それから後、文永五年に至るまで九年を経て、西方大蒙古国より我が朝を襲ふべきの由、牒状之を渡す。既に勘文之に叶ふ。』文を要約すれば
私の心配した、戦争挑発の使いが、蒙古から日本に脅迫して来たではないか。
既にそのことを、強く警告して来たのに、何等対応して来なかったことが残念だ。
今にして、私の奏上文が誤って居なかった。と後日、日蓮は述べている。
現在の日本の惨状
天変、地異の自然現象が、七百五十年前に、立正安国論によって述べられている。現在の日本は前述の如く当時と余りにも似ている。
既に異常の悪疫と云われる、悪性のインフルエンザに、政府は連日警告を発し、病人発生によって、学校の休講の施策が多くなった。最近は漸く治まりつつあるが。
目下、七月下旬と云うのに、朝と夜は、涼しいよりも寒いと思うほどの夏の夜が続く。
連日、雷鳴が聞こえ、集中豪雨が、各地に発生し、死者、被災者は、例がない程に各地に発生し、土砂災害が、一般民家の倒壊を各地に引き起こし、死者の数を増している。
七月下旬に皆既日食が、逆に見物客を集めて、世紀の現象とマスコミは大騒ぎした。
この異常天然現象は、治政の誤りが原因と立正安国論は、仏教経典を引用して説いている。異常を招いているのは為政者の、時の政治の誤りがもとである。
その政治の誤りを警告しているのが、異常な天然現象だと、なぜ考えないのだ。
現在の日本社会は、この異常について、科学技術による究明には熱心である。しかし、その現象の根本を究明しているのが、この立正安国論である。
当時は不幸にして、科学技術の力無きが故に、経典に説く、あらゆる論を引用せざるを得なかった。だが、それゆえに、真実を指摘されていると受け止めるべきではないか。
それにしても今日の政治の乱れと異常気象が、七百五十年前と似ているのに驚く。
立正安国論は日本人の鏡
四年前の衆議院選挙で幸運にも当選を果した、自由民主党現職議員が、いよいよ国民の審判を受ける時が来た。
今日の異常事態、即ち 一.百年に一度の、世界的大不況 二.大自然の異常現象 三.中国、ロシア、朝鮮半島の、反日無罪の行為
これ等の事態は、相手が悪いのであって、我等の責任ではないと考えておりはしないか。
日本の政界が、国家の存立と国民の平安を軽視して、党利党略、固利固略に陥っているところに根本の原因があると考える人が少ない。我々が襟を正し、真の為政者として、まず国家の安全を守るため、何をすべきかを優先して行なうべきだ。
与党自民党、公明党に対抗して、民主党は、今度こそ政権交代の時来ると「張り切りすぎ」ている。民主政治は、与党と野党が、ほどよく政権の交代をすることが大切である。だから、今度こそ新しい政権をと、国民は期待している。
だが、心配なことは、政権が手の届く所まで迫ったと自負しているのに、民主党は政権を担当して「日本国家の安全と生存をどうする」と云う、「防衛と外交方針」が混乱し、明示していない。と、私は何度も警告して来た。
大中国と自負する、支那大陸は、「七百五十年前の元寇」の役と余りにも似ている。
立正安国論に説かれる如く、七難のうち二難が残っている。いわゆる他国侵逼難と自界叛逆難これなりと説かれている、そっくりそのまま、眼前の日本が直面している。
「日本良い国や、歴史教育を正す会」等の運動が、国内各地から起っている。
大自然の動向に背けば、川の流れに逆行するように、目的地に到達出来ない。自然の流れに沿って行なうことが、一番早く、楽に目的地に着く。だが大自然に背けば、大自然が警告してくれる。こんな良い国が他にあるのか。めざめた人達は立ち上がりつつある。
鎌倉時代も、今日の日本社会も、同じ神と仏に守られた国が日本である。
立正安国論は、現実の日本社会の鏡として、あてはめ警告したものと受け止めたい。
仏教が印度で生まれ、中国を経過し、朝鮮半島から日本に及んだと言われるが、日本社会以外に、あまりその姿も魂も残されず。ただ寺跡のみが歴史を物語っている。
人智、人力では動かし難いと云われる大自然を、本当に動かしているのは「実は人間の力だ」。人間を幸運に導く為に、大自然は、あらゆる現象を表わしているのだ。早くそれに気付きなさい、と仏教経典と立正安国論の警告は論じている。
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