田中角栄に聞け いまもし田中角栄ありせば 塚本三郎
政権交代の結果、日本の政界は、余りにも痛々しい姿を露呈している。
鳩山由紀夫総理は正気か?という活字さえ躍っている。
このままでは 「日本が沈没する」 との声と共に、鳩山政権の支持率が二十%にまで下落。
既に一年前から準備していた、田中角栄元総理の長所と短所を書くよう、PHP出版社から依頼を受け、終章に及んだ本年初め、田中の直弟子である、小沢一郎、鳩山由紀夫等、与党の各幹部の言動が、師の田中の短所のみが目立ち長所を放棄している。その実体に鑑み「田中角栄に聞け」と出版社が表題を付けた。
永く国政の活動を重ね、その経験から、側面的、客観的に記事として判り易く綴ったので、時間が許せば御一読を期待して止みません。
本書のまえがき
人間社会には、すべて万全はあり得ない。正しい論理といえども、「七分の理」があればそれを押し通す勇気が必要で、「三分の反対」は留保すべきだ。とくに、複雑多岐にわたる政治の世界では、反対があるからといって決定を避けたのでは政治にならない。
政治の舞台で、三分の反対をどう裁き、対処するかを、日本の歴史上稀有の政治家田中角栄の行跡を教訓として、種々の立場から述べてみたい。
彼は、日本の政治史上に新しい、そして素晴らしい分野を開拓した。しかし、そのためにさまざまな問題点を結果として投げかけた。
戦後、吉田茂、岸信介、池田勇人、佐藤栄作らの帝大閥のエリート官僚出身者に対して、田中角栄という学歴なき逸材が出現した。
彼は、官僚的手法では思いも及ばなかった政治手法で「日本列島改造論」を手掛けただけではなく、それを可能とする税制、すなわち「受益者負担」の各種の税制を実現した。
とくに自動車に対する目的税は、道路財源としてたちまち日本国中の道路を拡大、整備、舗装し、車によって日本中の大都会と地方を結ぶ大事業を達成せしめた。今日では、その税は自動車と道路に必要な量を超え、一般財源にまで転用することとなった。
日本の政界は、戦後二十数年にわたって、行政経験の深い高級官僚が首座を占めていた。そこへ田中角栄の登場によって、官僚の上に立つ「政治家の実力」、すなわち人事権と立法権による諸制度の支配が確立された。ここに初めて「民主主義の政治」が第一歩を踏み出したというべきである。
立法作業と官僚を支配する人事権は、国民に大きな利点と発展をもたらした。すなわち「陳情政治」と呼ぶ、庶民の声を活かす道が活発となった。
だが、その裏には利権を伴うことも少なくない。民主政治は、洋の東西を問わず、多少の利権による汚職は消しがたい。しかし、陳情政治こそ、真の民主政治として横能している。
日本の憲政史上、稀有の政治家田中角栄は、その主たる業績を認められながらも、結果として重大な業績を否定するがごとく、「汚職の首魁」として葬り去られている。
その汚点、すなわちワイロの再発を禁止すべく、「企業献金禁止」という、民主政治にとっては致命的手法を選びつつあるのが、今日の日本の議会政治である。
付言しなければならないことは、献金禁止の代わりに日本の国会が、献金と同額以上の政党助成金を、お手盛りでつくつてしまったことである。
政治活動には相当の活動資金の必要が無視できない。それを禁じ、「清潔な」政治の実現と称して、莫大な政党助成金を議員一人あたり平等に(年間約三〇〇〇万円)支給している。
国民の代表者となった国会議員の活動と能力は千差万別である。しかし、国から支給される議員の給与は別として、政治活動費が全員一律でよいのか。政党助成金の制度が、いかに日本の国会議員と各政党の根性を麻痺させているか、心配である。
政治が国民のためであるならば、政治家と政党を支持し育てることは、国民の権利であり、義務でもある。それはたんに選挙の際の投票行動のみではない。それ以前に、政治活動に対して、自らの信ずる政治家個人と政党に、自分のもてるカの一部をもって協力すること、それが後援会活動であり、資金の提供でもある。私財を投じて献金する人は、政治に対する熱心な監視者でもある。その大切な献金の基本を禁止してよいものか。献金のすべてを悪の根源とすることは、国民を罪人祝する、否、献金のすべてを浄財ではないと断罪することになる。
ゆきすぎた汚職には厳しい罰則規定があり、いままでにも多くの議員に有罪の判決が適用されている。真の政治らしい姿を表わした田中角栄の治政の「負の一部」をとりあげ、汚職の代表と非難し、やがて企業献金の禁止にまで及んだ。政治献金と政党助成金の、いずれが七分でいずれが三分か。
政党も政治家も、今日では国家と国民の立場よりも、自らの地位と権力の座を占めるための政争に奔走している姿は呆れ果てる。議員となり、多数を得て権力の座に就くことも、国家、国民のために貢献できる手段であるが、目的ではない。それがために、今日の国会は、目的とする国家観の喪失となり、政党助成金に頼る国会議員に政治家と政党の資質が問われている。
有権者の立場から見れば、国家と国民のために身命を捧げる「国家の船頭」としての自負心よりも、政治家が観客の前で漬ずる役者となり、大切な国会が「劇場政治」という魂を失った演技の場に変わり果てている。それは悲しみを通り越して、怒りへと変わりつつある。
昔の政治家は「井戸塀」といわれた。資産のある人が公のために政治家となり、もてる資産を天下国家のために使い果たして、残ったものは井戸と塀だけだったと伝えられる。
時代は、大きく変わりつつある。昔の例を述べることは愚である。さりとて政治家となることは地位と金儲けが目的だと見られることは、あまりにも卑しい。
昔の政治はもっとよかった、という声を耳にする。
政治家の地位滝名誉も、あるいは資産も、すべて政治目的である「公のこと」、すなわち国家、社会のためである。そのため町手段や結果だけが論じられて、大切な政治の「目的と成果」が表面化されないことが口惜しい。
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