権力は本ものではない 平成二十二年八月上旬 塚本三郎
権力は、仮りの力(政治家はそれを承知か)
「権力」のことを宗教界では、「仮りの力」と呼ぶ。未だ「本もの」ではなく、本ものの代役を勤める立場だから、形は本ものでも、中身は、未だその地位に達していない。
神道では、宮司の代役が権宮司、仏教では、大僧正の代役が権大僧正と呼ばれている。
この地位に就いた人達は、その任に就いている間に、やがて、本ものの宮司や、大僧正としての人格、識見を身に就けられることを前提としている。地位は人物を研くから。
権力は、集団を指揮統率するための地位である。
本来は、人格、識見を具備した指導者の発言が、自然に大衆を統御する能力を持っている。それを補うものとして、それに近い人物に対し、社会では「権力」が与えられる。
権力者は、本ものではない為に、誤りを犯すことが少なくない。否、本ものでないから、権力を利用して、好き勝手な行動を、集団に命じて混乱を引き起こすことも珍しくない。時には、権力の争奪ゆえの乱さえ引き起こす。中国の歴史は、権力争奪の繰り返しである。
本ものの域に達していない人達が、権力を求めて争う。今日の日本の政界も同様である。指導者は、大衆の中に在って、一挙手一投足が大衆の手本となり、それでいて、大衆には抱き得ない指導力、責任感、そして犠牲の精神を果たす使命を負っている。
そして高い地位の人物ほど、より大きな愛情が必要である。「今日の政界や宗教界に、それを求められ得るのか。非難ではなく、お互いに反省の言葉が必要ではないか。」日本の歴代総理に、その片鱗を知ることが出来ただろうか。
借りものの力
内閣総理大臣は国家の最高権力者である。ここ数年、その権力者が自分の意思に反して、一年を経ずして辞任を余儀なくさせられている。それも四代続いてである。
自民党の安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、そして、民主党の鳩山由紀夫。また菅直人が風前の灯となっている。
このような、「権力の移譲」は他国には例をみない。しかも、自らの意思に反しての行動である。日本には権力者の上に、何か絶対的な実力者が居るのか。いやいやそれはない。
民主主義政治のなせる業に違いはない。さりとて有権者が、そんなに権力者を使い捨てにする、移り気だとも思えないが。
日本国家の上に絶対者として、本当の実力者が居て、次々と権力者を動かす、実力行使の姿を試行しているのではないかとさえ疑う。だが、そんな実力保有の支配者は居ない。
日本には絶対的尊崇者として天皇家があられる。
天皇家は、権力に介入は厳に控えておられる。あの戦前の時代にさえ、日本政府は、元老(元総理経験者)の進言に依らねば、天皇からの大命は下されなかった。
勿論、天皇家の存在こそが、今日なお歴代総理の交代があっても、政界では事変とも、政変とも騒ぐ必要はない。近隣諸国も、日本の政情を冷静に眺めているに違いない。
政権交代の前兆は、民意即ち、国会議員の選挙結果そのものである。
ならば、国政選挙の結果こそ、大きな天意と読み取り、その結果が権力者の交代を求めることになったと受け止める。
静かに過去の政権移譲を比べてみると、十数年前までは、これ程に短時間の政権交代は、自民党内の「タライマワシ」と評されても、一年足らずの交代劇は例外のみ。
今日の如く、一年以内の連続交代は異常である。もちろん、辞めざるを得なくなった総理に同情するつもりはない。――致し方なき事情と、認めるのが至当であったから。
小選挙区制の欠点か
以前と今日と、政界激変のどこが違うのか。その根本には、政治家に対して、生殺与奪の権は選挙制度に在り、その違いの一つには、小選挙区制が原因であるとの解釈がある。
一人一区制では、五十一対四十九は、結果として、一対零となる。昨年夏の衆議院選では、民主党が勝利した、而も圧勝であった。今年七月の参議院選では、民主党が一人区では完敗となった。云われるが如く、議席はそれぞれ、完勝、完敗であっても、得票数は、与野党、ともに、そんなに大差ではなかった。
前述の如く、投票者による少数の差が、小選挙区制では決定的に拡大される。政局は投票者の意志を大きく上回る、激変を招いたと判断すべきである。
それが政党の勝敗を決定的に印象付け、党首の交代を求めることにさえもなった。
もう一つは、過半数の有効得票を絶対的なものとすれば、三分の一ほどの反対者が出るとみれば、およそ反対者を警戒して発言し、大胆な政策を公約しなくなる。
結果として小心者の登場にならざるを得ない。
政治の舞台では、反対が在ることは止むを得ない。公のに臨む指導者である以上、堂々と、反対論を説得し、克服するのが真の政治家である。然るに反対者の出ない政策や、決断を必要としない政策は、およそ政治としては成り立たない。小役人行政となる。
小選挙区制は結果として、政治家らしい人物が、出馬しにくくしているのではないか。
否、出馬しても当選出来ない。反対を押し切る勇気、決断こそ、大物政治家だ。大局的見地に立つ政治指導者ではないか、そんな大胆な人物は、出現しなくなってしまった。
自らの信念を曲げ、言うべきことは云わず、心にもない、迎合的政策を連発するのは、国家、国民の前途を誤らしめる。今日は、それがために政治の堕落を招いたと憂うる。
大人物や、勇気ある指導者の出現を阻んでいるのが小選挙区制の欠点となっている。
前述の如く、二大政党による、政権交代の実現には適しているとしても、一人一区制は、議員内閣制の多数の原理からすれば、大物不在の政界とならざるを得ない一面が在る。
政界をかきまわした小沢一郎
日本が政治、経済、外交の面で、ここまで凋落してしまったのは、政治が何一つ建設的な手を打てなかったからである。その間に大きな役を果たした小沢氏の責任は大きい。
彼は国家のために、本当の意味で、何も仕事をしてこなかったのではないか。
ここまで政治をかき回しておいて、最後は黙って消えてゆくのは卑怯だとの評もある。一体、小沢は年齢(六十四歳)を自覚して消えてゆくのか、否、最後のアガキで、菅総理に一矢報いるのか、また政界の再編へ、新しい第一歩を踏み出すのか。
二十年に亘って、日本政界の舞台回しに「趣味の限りをつくした」小沢氏の出方に対して、今日もなお眼が離せない。
彼に対して、期待を抱くのは無理と承知しつつも、どうせ「壊し屋」なんだから、無目的の菅政権を倒壊させ、与・野党を含めた、日本の新しい政界再編への口火を切ったらどうか。ならば最後の華とみるが。
菅総理は、参院選挙に大敗となっても、自己保身に汲々としている。
小沢氏は、民主党内激動の地雷源と目されている、彼の支持を取り付けるべく、菅総理は幾度か、面会をアプローチしたが、未だに電話連絡さえとれないと伝える。
一国の総理大臣が、同じ与党の前幹事長に、電話連絡さえとれないとは、異常すぎる。まして、まともに仲介する部下さえ居ないとみえる。
選挙前に、大言壮語を重ね、その上、選挙準備の主役であった小沢氏に対して、人事面で罪人扱いを行ない、その結果の敗北とあらば、会わないほうにも理が在る。
菅総理はまず、権力維持と延命の私心を捨てよ。そのうえで赤裸々な態度で実力者小沢氏に会うべきではないか。
非は小沢氏よりも、菅総理の哀れな心情にあるとみる。
それにしても、菅総理は、民主党の掲げたマニフェストの数々を平然と捨て、時流に迎合して来たが、今後、日本国家の為に何を為さんとするのか。
ただただ日本国家の、最高権力者の地位を維持したいとの願望のみで、国家のため、民主党のための言動が示されていない。ならば小沢氏ならずとも、国民もまた、菅総理に対して、彷徨う姿を止めて、今一度、四国のお遍路のやり直しをされるべきだ。それが国家の為、御本人のためと進言する。
高齢者こそ国家の宝とせよ
急速に高齢化が進み、福祉と医療費が、否応なく、毎年一兆三千億ずつ増えると、政府内では当然の如く進められている。それを決定的に改めるべきだ。高齢者は迷惑者ではない。高齢者を正しく遇することこそ、日本政治の新しい第一歩である。
戦時中を生き抜き、敗戦の焦土から立ち上がり、稼ぐに追い付く貧乏なしを合言葉として働き続けた高齢者は、漸く豊かで「衣食住」に不足しないで定年を迎えることが出来た。
定年後は「ゆっくり休もう」「乏しいけれど夫婦で旅を楽しもう」「好きな本を読破して、生き甲斐を求めよう」そんな計画も、それなりに各人が、わが道を進みつつある。
今日の日本は、貧しいながら、まさに天国だと云うべきではないか。勿論、欲を言えば際限が無い。近隣の人々と比較すれば、欲も出るし、愚痴も多く出る。
団塊の世代が高齢化を迎えて、国の財政は、残念なことに窮乏の一途である。
民主党政権は、財政健全化の為の「事業仕分け」を、唯一の道と宣伝に熱中している。
高級官僚の天下りが非難の対象とされ、天下り先の給与が巨大だと、高級官僚を罪人扱いしている。これは庶民の不満の捌け口としているのは当然である。
だが彼等高級官僚を含め、高齢者の再就職を考えるべき時だ。
我々は、定年後も働きたい。働くことより他に人生は無い。未だ健康には自信が在る。
朝の出勤、夕方の帰宅と云う、「人生のリズム」が狂いはじめ、定年後の寂しさを実感するとき、給与の多寡よりも、人生の充実した年齢を、活かすために、何か仕事が欲しい。
勿論、今迄の経験を活かすことが出来れば、それにこしたことはない。
定年後の高齢者の多くは働きたいと願っている。これまでの経験の力は決して無意味に死滅させず、経験の宝、技能の宝、発想の宝として、国家が、その高齢者の生きた経験の宝を、真の宝として活用する方法を考える時が来た。それに対して政治家は知恵を出せ。
働きたい人、働ける人に仕事を与えることが、最大の「老人の健康」となる。
規則正しい日常生活のリズムを続けさせよ。高齢者達に、病院に向ける足を、仕事場にむけさせることだ。それが最大の福祉政策であり、健康のための保険である。
|