_塚本三郎元民社党委員長小論集_ _当会支部最高顧問、塚本先生世評_
六十五回目の八月を迎えて    平成二十二年八月下旬  塚本三郎

八月六日、広島は六十五回目の原爆忌を迎えた。

 平和記念公園で、各都道府県の遺族代表や、菅首相ら約五万五千人が犠牲者を悼んだ。

 「核兵器なき世界」を掲げるオバマ米大統領が登場し、米・露の新戦略兵器削減条約締結など、世界が、核軍縮へ進めるなか、国連のハン・ギムン事務総長や米国のルース大使をはじめ、核保有国の米英仏の代表が初めて出席した。

 広島市の秋葉忠利市長は主催者として、平和宣言で、この舞台を利用して、日本政府に「核の傘」からの離脱を求めた。このことについて、後刻の記者会見で菅総理は、「国際社会では核戦略を含む大規模な軍事力が存在し、大量破壊兵器の拡散という現実もある。不透明、不確実な要素が存在する中では、核抑止力は、我が国にとって引き続き必要だ」と述べ、秋葉氏の発言に対して否定的な考えを示した。

 広島に原爆投下を命じたのは、米大統領トルーマンである。同大統領は、日本との戦争を早く終わらせ、米兵の犠牲を少なくするためには、これより方法はなかった、と弁明しており、今日なお、米国民の六〇%は、これを支持していると伝えている。

 日本人が、この非人道的な行動を非難して「広島、長崎を忘れるな」と叫ぶ度に、米国民は「パール・ハーバーを忘れるな」と呼び返す、双方の繰り返しとなっている。

天の裁きは公平

 昭和二十年八月、米、重巡、インディアナポリスは、周囲の警戒を避けるためか、それとも、日本海軍は全滅したと誤解し軽視したのか、駆逐艦や、潜水艦の護衛をつけずに、原爆をテニヤンに運んだ。その帰途、日本の潜水艦(橋本以行艦長)「伊号五十八」に狙い撃ちされ撃沈した。このあたりはの生息地であり、敵乗組員はどうなったであろうか。昭和二十四年米軍の記録によると、原爆の横にはインディアナポリスの霊に捧ぐと書いてテニヤン島から広島に飛んだとあるから、原爆投下の時点で、彼等の悲劇は知っていたとみる。

 広島へ原爆を搭載した(エノラ・ゲイ)の誘導機、ストレート・フラッシュの機長は、エザリーである。誘導者は、雲の切れ目を探して、原爆の投下命令を下した。広島を灼熱地獄に陥れた彼は、後日「航空十字章」など幾つかの勲章を得た。

しかし、強度の神経症を病み、精神病院と刑務所への出退所を繰り返した。西テキサスの郵便局へ、仲間三人と押し入って、強盗犯人ともなった。

 たった一人を少し傷つけただけでも心は傷みます、ところが自分の背後には二十万人の死体が重なっています、私達は罪なき罪に落ちるのです、死者に、どの様に謝ることができるのですか。(往復書簡より)

 

 大東亜戦争中、東條首相の批判をし、戦争の非協力者とされた石原莞爾中将は、参謀本部を追われて、京都師団長に出され、それでも東條英機に対して、批判の言を止めなかったが故に、中将の職も解かれ、止むなく、親友の住む山形県鶴岡に隠棲した。

敗戦直後、病の為、逓信病院(東京お茶の水)に入院していた。

 突然、米軍幹部が、尋問する為、彼の病床に訪れた。米軍人は問う。

 「今回の戦争で、世界一の犯罪人は誰だ」。「トルーマンだ」と答えた石原に、「トルーマンとは誰だ」。「お前の国の大統領だ」。まさか、米軍人はこんな返事は予期していなかった。

 東條英機に敵視され、軍籍まで剥奪され、開戦と敗戦の責任を負うべき石原に「東條こそ世界一の犯罪人」と言うことを米兵は期待して来たのに。

 なぜだ、との問いに、石原は一枚のチラシを示した。昭和二十年六月、ルーズベルト大統領の死に伴って、副大統領トルーマンが後を継いだ。その直後に、米軍が、東京の上空から撒いた。そのチラシには、「女、子供といえども、戦争に協力するものは爆殺する」と書いてある。これは国際法違反で、国民が国家の為に協力するのは当たり前である。

 米軍人は、「あのチラシは脅しだ」と弁明した。「何が脅しだ、東京は焼野原となり、十万人が死んでいるぞ、広島や長崎に原爆を落とした鬼畜が脅しか」「こんな野蛮な国と戦った日本が恥ずかしい」と、石原の声は静かなうめきとなった。

 聞くに堪えない場面となった米軍人は、黙って立ち去りかけたとき、「コラ待て、米軍が日本を戦争犯罪者として裁くと云う。それは満州侵略から始まると云っていた。満州国は俺が造ったのだ。それなのに、なぜ俺を裁判に呼ばないのだ。俺に、本当のことを述べられることが、そんなに恐いのか」と怒鳴り返した。

 多くの指導者が、戦犯と呼ばれることを恐れている時、石原は「俺をなぜ戦犯として呼ばないのだ」と叫ぶ、これが本当の軍人ではないか。

勝者に裁きを求めた昭和天皇と石原莞爾

 昭和天皇は、昭和十六年宣戦の詔書に先んじて、明治天皇の御製を二度朗読された。

  四方の海 みなはらからと思ふ世に

      など波風の立ちさわぐらむ

 そして、崩御される半年前、全国戦没者追悼式の日に詠まれた御製がある。

  やすらけき 世を祈りしも いまだならず

      くやしくもあるか きざしみゆれど

 

 昭和二十年九月、昭和天皇裕仁は、占領軍のマッカーサー元帥の下に挨拶に行かれた。マッカーサー元帥は、日本本土占領には、およそ百万の軍を必要とし、その半数は、死を覚悟しなければならなかった。それが天皇の大命によって一挙に終戦となった。

 しかも天皇は、この戦争には賛成ではなかったことを元帥自身承知していた。

 元帥は大きな関心をもって、天皇を出迎えた。

 まず天皇の心を慰めようと、煙草を元帥が差し出したところ、天皇は煙草をお吸いにならないから、その作法がわからなかったとみえて、左手で一本つまみあげられたが、その手がふるえておられた。元帥は、ああこのお方も命が惜しいのだな「私は戦争には反対だった」と弁明に来られたと元帥は推測した。だが、天皇の御発言は全く意外だった。

 裕仁天皇は、「この度の戦争をなしとげるにあたって、政治、軍事両面でおこなったすべての決定と行動に対する、全責任を負うものとして、私自身、あなたの代表する諸国民の裁きにゆだねるためにおたずねした」と述べられた。自分を裁判にかけよと言われた。

その上、「唯一つお願いがあります。それは今、日本国民は食べ物に飢えております、暫くの間、食糧を貸してください。これが担保です」と侍従に持たせて来た包みの中にある、皇室の全財産目録を差し出した。陛下は、食糧を下さいとは頼まれない。

 マッカーサー元帥は、大きな感動にゆさぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知りつくしている諸事実に照らして、明らかに、「天皇に帰すべきではない責任」を引き受けようとしている。この勇気にみちた態度は、私の骨のズイまでゆり動かしたと後に書いている。

戦争を創ったアメリカ

 昭和十六年末、アメリカは、欧州の戦局が心配であった。

 連合国の英・仏が、に攻められ、危うくなっても、支援には出向く名分がない。

 その上、支那の蒋介石軍に武器、弾薬、軍費の支援を行っていても、日本軍には歯が立たない。米国の軍隊が直接、戦争に参加する以外に、方法はない。しかも、米国民を納得させるのには、日本をして戦争を挑ませたい。

 日本には、石油をはじめ、製鉄などの原材料が無い。従って日本の資源を封鎖しておいて、戦争を仕掛けさせることに、アメリカは全力を尽くした。

 我々は戦争をしない。「戦争を創るのだ」。これはルーズベルト大統領の、身内での発言である。どの様にして、日本を戦わせるのか。日本を追い詰める以外に方法はない。

 陸軍長官・スチムソンは、「明日、戦争がおきる」と側近に語っており、日本軍のハワイ攻撃を知っていた。しかし、これ程に勇敢で、強力な日本軍の戦力を計算出来ず、緒戦の一年間は戦闘能力を失った。

 昭和十六年十二月八日、宣戦の大詔が発布された。

 昭和天皇は、東條首相に対して、大東亜戦争の行方に、大きな不安を抱いておられた。

 昭和十二年七月に始まった日支事変も、終息していない。一年で片付けると、時の総理は約束したのに。もう四年が過ぎた。そして支那は広うございますからと弁明した。

東條総理に「太平洋はもっと広いよ」と、暗に賛成しかねる意を示されている。

 天皇は「誠に止むを得ざるものなり、豈朕が志ならんや」と宣戦の詔書に書き加えられた。天皇のお考えでは賛成でなくとも、全会一致の閣議決定ならば、反対してくださるな、との助言は重臣、西園寺公の要請であった。

山下泰文とマッカーサー

 昭和二十年九月、日本軍の降伏文書調印の場は米艦ミズーリ号艦上である。

 終戦まで、台湾に抑留されていたイギリスのパーシヴァル将軍が、一行の通訳についていた杉田一次大佐をつかまえて、「私を覚えているか、私は君を覚えている」と言った。

杉田大佐も忘れはしない。シンガポールが陥落したとき、山下大将の隣で、パーシヴァル将軍に無条件降伏を迫ったのが彼で、そのあとで山下大将が「イエス・オア・ノー」とやったのだ。それが、めぐりめぐって、まったく立場をかえた。彼は英国代表の席。

 マッカーサー元帥は、敵将山下大将・本間中将を処刑した。しかし、日本軍は敵将パーシヴァル将軍を台湾に移し抑留した。彼が戦後の調印式に勝者の席に着くことのできたのは、未だ日本に武士道が残されているあかしではないか。

 戦争は、国家対国家の戦いであって、軍人対軍人の憎しみの争いではない。

 ならば、軍人にとっては、戦争は、止むを得ざるものとしても、一旦、戦いが決着すれば、お互いに祖国のための英雄として尊敬し、慰め合うのが真の勇士ではないか。

 勝者が敗者を裁くことなど、憎しみと復讐心に他ならない。

 そして、戦いの正邪は、必ず、勝敗の区別なく、天がやがてこれを正しく裁くであろう。それが仏教に説く因果応報だと信じたい。

PDFはこちらをクリック