地涌菩薩の出現 平成二十三年二月下旬 塚本三郎
菅総理は恥を知れ
鳩山前政権は、小沢一郎幹事長を道連れにして退陣した。しかし、菅直人政権は、前よりももっと悪くなったとの評が大勢である。マスコミは、菅政権に対して連日非難の記事を報道している。
菅首相と仙谷代表代理は、「不正直」で図々しく、かつ嘘っぽいことを平気で云う。前言と反対のことでも、知ってか知らずか、平然と答えて、その場を取り繕う。
自分が最高の地位と、権力の座に座って居りさえすれば、どんな恥も意に介さない。延命のみが目的とみる。その見苦しい姿を恥とは感じていないらしい。
菅総理は過日、ロシア大統領をAPECの主催者として横浜に招待した。そのロシア大統領は、第二次大戦以降六十五年にわたり不法占拠している、日本の北方領土の国後島へ、日本が招待もしないのに上陸していた。
菅総理はこの暴挙を、大統領に非難するのかと思いきや、北方領土は「日本の領土だ」とクギさえも刺さず、その無能ぶりを世界にさらけ出した。
それなのに二月七日には、北方領土返還運動に、九段会館へ集まった二千人近くの人達の前で、「北方領土は日本の領土だ、ロシア大統領の国後島訪問は許し難い暴挙だ。元島民が元気なうちに問題を解決したい」と改めて決意し、返還を声高に叫んだ。ならば、なぜロシア大統領と会った時、それを云わなかったのか。
日本の憲政史上最悪の政権と、各週刊誌が大きな活字で書き立てている。
菅総理よ「恥を知れ」と言わざるを得ない。
国民は、今や一刻も早く政権交代によって、民主党政権を終わらせたいと願っている。
それには、衆議院の解散によって民意を問うか、民主党の分裂による政権崩壊と、政界の再編しかない。それができなければ、日本国家そのものが沈没すると危惧する。
菅直人氏の人となりについては、すでに、財務相、副総理として、その自己保身ぶりが散見されていた。更に、総理就任後、僅か半年にして、そのエゴを露出している。
菅氏は、もともと革新的政治の立場をとってきた、日本の革新は、なべて容共的であり、反米的言動が大勢である。彼が総理に就任するや、その姿勢を露呈し始めた。やがて、国民の冷たい眼を意識せざるを得なくなった。
例えば、沖縄の米軍基地の普天間や、インド洋の米軍への給油、或いは防衛費の削減等。
機を見るに敏なる、便乗主義の菅総理は、国家の為、また、所属する民主党の為には、一顧だに考慮する良心を持ち合わせていないにも拘らず、心にもなく、総理としての人気取り、延命の為ならば、容易に変質してみせることにこだわらない。
昨日の発言と今日の答弁とが、全く異なっていても、良心の痛みを感じない。一時的弁解で、その時々を体よく逃げ切ることの秀才ではないか。政治家の変質を、卑怯だとは考えていない。それが総理の任務だと信じているようだ。その結果、日本国家が品格を失う。 そして、徐々に亡国のに沈みつつある日本国を、他人事の如く考えている。
党内には異論が百出し、各大臣間でさえ、異論続出の不統一内閣となっている。
世界的大動乱の時代を迎えた
アフリカ、チュニジアの大統領が亡命した。大衆の反乱、デモが原因と伝えられる。
隣のエジプトでもムバラク大統領に対する、辞任要求のデモも続発している。更に中東全域が民主化とは程遠い王制、専制への不満から、政情の不安が拡大している。
中国も、ロシアも、すでに人民の不満が爆発寸前に達している。
鳩山、菅両内閣の出現も、そんな時代が生んだ宿命であろうか。こんな、とんでもない政権を生み育てたのも、時代が生んだ神のイタズラなのか。
「アキカン内閣」、「泥舟内閣」と酷評されている。一面では、自民党政権の負の遺産を受け継ぎ、その難題から未だ脱し得ない後継内閣の苦しみでもあると思いやる。
問題は、自民党の歴代政権が、既に賞味期限切れと云う、民主党にとっては丁度良いチャンスの到来による、「政権交代」の幸運に遭遇したことも否定できない。
民主党政権の出現に対して、国民は大いなる期待を寄せた。
加えて、出来もしない民主党の、マニフェストという新造語の、バラ蒔き福祉の具体策に、国民が一抹の期待を寄せたこともあった。
民主党の大勝利が、一年を経ずして、国民の不信と、絶望と、嘲笑に代りつつある。
日本国内の政治的混迷が、唯単に、日本のみに止まらない。
米国対中国の、経済協力とは逆の軍事的警戒と対立。共産主義各国の内乱的混迷。その上、世界を原油資源で、経済的支配力を誇示していた中東諸国の、王制的独善施政への庶民の反発。今や地球は、地下爆発ならぬ、地上暴動化の前兆を呈している。
動乱は神仏の啓示
「日本変革の歴史」を振り返ってみると、神の国日本が、仏の国日本と合一し、神道・仏教二つの宗教と、大自然の働きが、因縁と果報の天啓として、今日積み上げて来たと私は信じたい。
例えば、第一に文永の役と弘安の役(元寇)がそれであり、第二は明治維新による国難をして、近代化への夜明けとした。そして、第三に大東亜戦争による敗戦もまた、占領軍による、新憲法と日本の政体の急変をも「元寇」と見ることも出来る。
日本人は、大自然の恵まれた環境に生まれ、その恩恵に感謝して、不満を抱かない明るさを持って来た。それが逆に、自然に順応すれども、改革と進歩を遅らせて来た。
それゆえ神仏は、政治に対して、また指導者に対して、外圧と呼ぶ、改革を求める威圧が、日本国に「警鐘として侵攻」する。日本に襲来した前掲の三回の外圧の歴史こそ、亡国を招く危機のに追い詰められた、それを国難と呼んでいたのではなかったか。
それを外圧と呼んではみるが、真実は、神仏の日本国民に対する警醒の鞭であろう。
大自然の恵みと、豊かな経済的生活に、感謝と魂を磨く努力を忘れ、安逸にして怠惰な日本人となった平成時代の国民に対する、天の戒めであると受け止めるべきではないか。
切り抜けられない苦難は無い。ゆえに、我々日本人に対する覚醒の鞭だと受け止めるべきではないか。ならば、我々が目覚めるまで外圧の激震が続くと覚悟せねばならない。
日本人は、勇気をもって、一刻も早く神仏の「覚醒の鞭」に応えるべきだ。
日本に対して、ここ一年余、なり振りかまわぬ中国の、武力と嘘による悪宣伝の威圧が押し寄せて来ている。それに対応する、民主党政権の「亡国的対応」は見るに堪えない。
神仏が中国と呼ぶ悪魔を駆使して、日本政府と、国民を覚醒させる天の使者に見える。
最近、指導的地位に立つ人達と会うと、菅政権に対する不安と不満を例外なく述べられる。そして、一体、これからの日本はどうなるか、と尋ねられるが答えられない。
政権が旧自民党に代るだろうか。日本の在るべき姿を確立したとは未だみられないのに。
早く「衆議院を解散しなさい」の連発のみである。解散すれば、自ら政権が転がり込んで来ると勘違いしているやに見える。代りうる政党自身が、国家理念を具体的に明示することが先決である。我々は、かくすべきだと「国家観確立の具体策」を提言すべきである。
日本が、真に独立国として体制を維持する為には、現下の中国に対応できる、軍事バランスの回復である。中国の軍事力、とりわけ海・空軍の増強によって、日本の戦略的環境は劇的に変化している。中国の海軍力は、アメリカも一目置く程の力をつけてきている。
本来の国家日本に改める
日本の苦難の問題は、外敵ではない。日本が日本でなくなっていることを自覚し、進むべき道を明確に示し、改めることである。それには次の如く提言する。
◎自主独立の国家にする為に、先ず「新憲法を創設」することである。
◎独立国にふさわしく、外敵の侵攻を許さない為、自衛隊を国防軍に改め、日本列島の北と南のの「防備を強化する」ことである。
◎日本の自主独立は、若者を鍛えることが不可欠である。それには一時期、団体生活と訓練の場を義務的に設定する。ドイツのような徴兵制も一つの方法である。
◎日本の社会と、家庭の崩壊を招きつつある、今日迄の歪められた「教育を立て直す」こと。とりわけ教育勅語の精神を、学校教育と社会教育にとりいれる。
◎デフレと雇用不安を解消するため、その主因である、国際金融の暴走に対抗する、「金融改革に本腰」で取り組み、削られつつある「公共事業」の必要性を認識する。
その指導者は、与党の中から現れるのか、或いは野党の中から出現するのか、未だ見えてこない。だが、日本には、苦難の嵐の中から、必ずや、神、仏の魂を体した救国の士が出現すると信じている。日本には今日なお、表面には現れないが、国難を乗り越える立派な政治家が居ると信じている。
日本は、国難が国を支える憂国の士を生み、育てて来た確たる歴史が在る。
元寇の役には、北条時宗や日蓮上人が。明治維新には、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、高杉晋作等。敗戦時にも、幾多の烈士が出現し、今日の日本を建て直してくれた。
それ等の人達は、国難の襲来以前には、名も無き人士であった。時代を経て歴史がその人達を評価する。憂国の士、愛国の士は、国難が生み育てて来たものとみる。
逆説であるが、土中に埋もれた人達の中から、名も無き有為の指導者が、涌き出で出現する。仏説の表現を借りれば「地涌菩薩」である。
偉大なる指導者の出現には、その前に大動乱が発生する。その時、憂国、愛国の士が各地から涌き出て来るように、名も無き指導者として出現する(法華経 従地涌出品)。
日本の前途危うし、地涌菩薩出でよと、国民が誠の心で、愛国、憂国、そして世界平和の為を祈り、大合唱する時、その期待は実現するものと信ずる。
既に日本各地では、政治の現状を憂いて、日本再生の声が上がりつつある。単に個々人の集まりからも、幾多の集団の中からも、例えば、宗教団体、倫理道徳団体、財界諸団体、そしてロータリークラブ等、これまでは、政治に距離をおいていた集団が、政治の行方を尋ね、愛国、憂国の集まりとして、熱い思いを寄せている。特に若者の中から涌き出していることは注目される。――これが地涌の菩薩でなくして何であろう。
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