今こそ日本人の底力を 平成二十三年四月上旬 塚本三郎
いつまでも続く余震
三月十一日の大地震以来、余震が連日の如く、東北地方から北関東へと続いている。余震と雖も震度五程度だから、大地震の連続とみるべきか。
津波の巨大襲来は、一千年に一度とも呼ばれ、世界中の関心をも集めた。
その上、原子力発電の破損による放射能漏れも、治まる気配はない。
地震の発生は、時の政権及び国民の怠惰に対する「大自然の警鐘」と、釈迦は仏説で警告している。非情にも、現在の日本政権の首座に在る民主党は、人材についても、覚悟の程も、そして経験の度合も、かつての政権とは比すべきものが無い程に拙劣である。菅直人総理の施政に対する姿勢は、国家観無き迷走ぶりで、識者からの非難の連続である。
それでも、日本丸の操舵の座を明け渡さない。その非道については今日まで屡述べた。
否、明け渡さざるを得ない事態を迎えつつも、数を頼りに菅政権は居座り続けた。しかし致命的不義の露呈によって絶体絶命の寸前に、大震災が襲った。この危機に対処するには、超党派の一致協力が欠かせない。ならば、身命を賭して対応すべきであった。
然るに、政権「延命のチャンス」とばかりに、菅総理が自民党総裁へ、副総理として閣内協力を申し出たが断られた。天災をも、国家の非常事態よりも、自らの政権の延命が第一だ、としか考えられない菅総理の姿に、与野党の政治家はあきれ返っている。
ならば大自然は、一国の総理が反省し、真に懺悔をするまで天の警告として余震が続くとみるのは、総理に対する侮辱か。いつまで余震が続くのか、不安の日々が続く。
天災は罰ではない
禍転じて福と為す。未曾有の大災害「東北関東大震災」には、それに相応する被害と犠牲が巨大化しつつあることは、余りにも悲しいことで見るに堪えず、聞くに堪えない。
だが大自然のもたらす災害は、その下で生きる我々国民の、施政及び日常生活に対する歪みを正す、「天与の警告」なり、と私は度々論じて来た。それを「天罰」と論じて、非難された為政者も居た。庶民に対して、分かり易く論じたつもりであったであろうが。
天は、常に褒美と天罪を、二分していると解してはいけない。勿論、論理としては、幸、不幸と二分して受け止めるのが、庶民の教育としてはわかりやすいかもしれない。だが、天は、いつでも、大自然の動きに素直に従う者のみを幸せにする。それに逆らう者には、試練を与え、警告を発する。警告ではあっても罰ではない。
歪められた思考と、行動を正さしめる為の大自然の警鐘であり、温かい教導と受け止めるべきではないか。しかも、その警告こそ、受け容れられない程の苦痛ではないはずだ。
大自然は、それ程に無慈悲ではない。我々人間が受けた苦痛こそ、再生への出発となる程度の、情けある試練とみるべきではないか。
日本人は、幾度かの大試練を乗り越えて、素晴らしい歴史を経験して来たし、充分に乗り越えて来た。それこそが明治維新であり、大東亜戦争の敗戦であった。苦難こそ、亡国の崖淵に立たされて来たことが、新しい日本の夜明けと心得て、堪え切り抜けて来た。
すべての分野で、我々の祖先は禍転じて福と為す、を合言葉として今日を迎えたではないか。この禍を、どう受け止めるかが日本国民の力量であり、心の構えかたではないか。勿論、為政者の魂胆と力量であることは申すまでもない。
災害復旧で思い出す。大東亜戦争による米軍の焼夷弾攻撃で、大都会は丸焼けと化した。
木と紙で建てた日本家屋は焼け易い。名古屋市内は、空襲による延焼で焼野原となった。
わが家も、最後まで類焼を免れんとして、裏の水槽の水をバケツに汲んで防止に努めたが遂に防げなかった。気が付いてみれば、煙で眼を痛めていた。
敗戦直後、名古屋市の田淵助役は、消失で焼野原となった惨状から、大火の類焼を止めるのには、広い道路が最適と判断した。その結果、市内中心部には、縦、横に百米道路を構想した。そして広すぎると云われ、非難を浴びる程の、大幅の道路を市内の各所に計画実施した。空爆と敗戦の災害直後だからこそ、その空想が実施出来たと云うべきか。
名古屋市と言えば道路が広い。百米道路は広すぎて、中間に緑地を、そして両側に四車線の車道を設けている。名古屋市中心部は片側四車線が普通の道路となっている。禍を転じて福と為した。類焼防止が、近代都市の道路計画の雄大さと化した。
新市街の建設
被災者、住民にとっては、一刻も早く故郷に帰り、懐かしい隣人と共に、復活、復興を願う。その人情を無視すべきではない。だが、被災当時の住人とても、より良い故郷が新しく建設されるならば、敢えてこだわる必要はない。
故郷で倒壊した主因は、津波の襲来であった。被災地に、再び津波の来襲を恐れることは、被災者の心理としては否定出来ない。従って海岸近辺の平地に再び新市街を建設することは、できれば避けるべきであろう。否、むしろ、その低い、平坦な海岸線地帯こそ、低地、平地を活用する、理想郷を計画すべきである。――でき得るならば建物や住居ではなく、公園緑地、運動場、農地等として、日本一の理想郷の園を築くべきではないか。
海岸近くには盆地や森林が控えている。その高台を中心に、以前にも増して住み心地の良い街を、被災地住民の為に建設すべきが理想である。
それが復興の第一歩である。復旧ではなく、新市街の建設である。それを直ちに計画し、避難民の総意を結集し「建設計画」とする。既に多くの識者は、幾多の新説を、理想的市街地建設として提言されている。
言うまでもなく、これが実現する為には、莫大な資金を必要とされる。
菅総理は、復興には金に糸目をつけないと、軽く発言された。此の度こそ莫大な国費を注ぎ込み、空理空論ではなく、避難住民に対して、禍転じて福と為すの現実を示すべきだ。
日本国中には、資材も、技術も、善意も、充分に足りるだけの力が在る。まして、デフレと円高であれば、三十兆円の損害に報いるのには、五十兆円、否、百兆円の資金を投じても惜しくはない。円高で売り浴びせられた、各国の無責任な金融暴挙に立ち向かう為にも、私がこれまで論じた如く、「政府紙幣」を今こそ発行し、この大災害に向かうべきだ。
お金と時間さえかければ、復旧は直ちに出来る。かつての阪神大震災は復旧したが、以前より繁華な街になっただけで、被災の痛ましさは活かされてきたのか。
今回も住民不在のまま、政府は復旧を急ぐであろう。それが官僚の典型的体質である。
しかし、今度こそ、その痛ましい経験を充分に活かすべきだ。住民の納得する意見を、専門家の理想と共に、少々の時期的おくれになろうとも、東北人の根強い忍耐力と根性で、理想の世界を実現してみせる。悲しくも東北人は既に同様の被害を二回も受けたのだ。
今度こそ、決して同様の不幸を招いてはならない。全国民は東北人の真の根性を注視している。否、全世界が注視している。その面前で、大往生を演じさせられているのだ。
それには、東北出身の素晴らしいリーダーも数多く居られるはずだ。
東北出身の政治家たちよ、郷土の為と云う小さな名誉心ではなく、全世界注視の大舞台で演ずる「本当の劇場政治」が迫っていると覚悟し、対処して欲しい。
近代経済の波及と影響
世界的有名企業の、トヨタや、パナソニックに代表される巨大企業は、その中心地が、名古屋であり、また大阪である。従って、東北関東大震災に襲われても、殆ど影響がないと我々は誤った判断をしていた。
だが、真っ先にこれらの企業が生産の中止に追い込まれた、なぜか?今日の日本巨大企業の特質は、下請け中心の組み立て会社と云うべきである。下請中小企業は申すまでもなく、商品の中心となる、企業秘密の極く一部のみを、本社の直轄として生産している。
だから、大部分の部品は、下請会社化した、協力会社を育て、組織化している。
東北や、九州地方は、比較的、地価と労働力が安易で、工場建設に適している。
自動車も電器も、大企業は、全国に散在する、下請部品会社の供給を受けて完成品にする、云わば組み立て会社である。否、組み立て会社そのものさえ、小会社化している。
ゆえに、東北の津波が、間接的に与えた影響が、巨大会社の製造を直撃したことになる。
製造部品が全国に散在していることを不幸と思ってはいけない。全国に散在しているからこそ、短期間の休業で済ますことができたと解すべきであろう。それが為にこそ、不幸と災難を分かち合うことになったとみよう。
被災を免れた地方の工場は、フル活動を続けている。問題は、輸送方法である。一時的には、救援のため、積荷が全国から被災地へ集中的に移動している。
大量輸送は船が最適である。貨物船も、客船も、連絡のフェリーも総動員するは勿論。最近では、一県に一空港の設置は無駄との悪評の中を、各県では既に稼動している。救急医療の為には空の便も当然活用している。
大震災と津波に追い討ちをかけるが如くに、東京電力の原子力発電の危機が、放射能の不安と共に、発電能力の低下を来し、「計画停電」の痛みの余波を大きく拡げた。
とりわけ東北地震と無関係と思われた、北関東全域の工場がそのあおりを受けている。
「計画停電」については、政府の対応と、東京電力幹部双方の意思疎通と、計画性の無謀が政治問題化されている。一体政府の政治指導はどうなったのか。
政府はすべての危機を東京電力に任せ、責任を放棄している。責任者は電力会社と一体となり、政府と経済産業省は、原子力発電に対する陣頭指揮に当たってしかるべきである。
この大震災こそ、日本が国家として、身も心も、そして官も民も、まして与党も野党も、日本国は一つの国だよと、その姿を全世界に渾然一体として示すべきである。
気にかかるのは、原子力発電損傷による、放射能の流出と対応の不手際である。今回の事故で、世界的に未知の世界に突入することを余儀なくされた日本。
科学立国日本の姿を、世界中が注視している。日本が、万一この事故の処理に失敗すれば、全人類の失望となり、全世界に暗い雲を投げかけることになる。
二十一世紀は科学技術の時代である。そしてより多くのエネルギーの消費が、文明と文化の土台となっている。それには、原子力の活用が今世紀の決め手であることを忘れてはならない。今こそ日本人の魂と能力を示す、絶好のチャンスと受け止めるべきだ。
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