五体満足に感謝 平成二十三年五月下旬 塚本三郎
少しの休暇を利用して、近所の健康ランドで休養をとる。
裸で大きな浴槽にひたる気分は満足そのもの、温泉でなく普通の湯でも体を休めてくれる。隣の人達とも自然と気を許して話し合う「裸のつきあい」である。
時折、身体障害のある子を連れて来る父親をみかける。普通では見かけられないが、裸になれば手の不自由、足の不自由、中には腰を痛めて裸のままで、小学生になっているのに、這って移動する姿は、気の毒そのものである。
親は障害のある子ほど可愛がると聞いていたが、これが真の親と思う姿を見せ付けられる。大きな子を抱えて、広い洗い場を歩く。子の背や頭を洗ってやる姿。
当然、自分の体であっても、手や足が不自由だからこそ父親が代って、十歳ほどの子でも、その背を流してやる姿に、見た目には神々しささえ感じた。
子供の障害の原因を聞くつもりはない。しかし親は自分の責任と云うよりも、自分の分身の如く、わが子の背を洗っている。人間本来の姿を見せ付けられた。
過日、私は左手をケガして、二、三日、手当てをした。勿論注意して、浴槽へその手を浸けないようにした。右手ですべてを洗うことの不自由を思い知らされた。
ほんのカスリ傷だから、二、三日で済んだが、二本の手が、どれ程必要なものかを思い知らされた。五体満足が、どれ程に有難いことなのか。
眼、耳、鼻、舌、身、意、五体揃って当たり前と信じて過ごした八十年余に、どれ程の感謝を抱いていたか。自らが傷付いて、初めて思い知らされた。
感謝の念が、足るを知らざるに至るときには、天が思い知らせるために、困窮の思いを知らせるべく、家庭や環境に変化を現わす。また政治の不信を示す時には、天変地異をもって警鐘を乱打すると覚悟せよ、との仏典の一節を思い出す。
足りないのは感謝の心
服あふれ、靴あふれ、籠にパンあふれ、足るを知らざる国となり果てつ 富小路
禎子さん
友と再会を約するとき、○○デパートの一部で会う時が多い。デパートに行っても買いたい物が無い。みんな揃っていて、買っておいても未使用の物さえも沢山在る。
それでも、暑い、寒いの、冷暖房完備で、居心地良く、散歩し、物珍しく買い物を見て廻ることが出来るから、百貨店に出会い場所を決める。そして人々も多く集まる。
足るを知らざるは、品物ではなく、日本人の心の持ち方であろう。物は「あふれる」けれど、心は空虚で足りない。足りないのは、感謝の「心の不足」ではないのか。
国敗れて忠臣出ず、家貧にして孝子出ず、は昔の教訓であった。欲の器には底がない。
東日本大震災によって、日本人は漸く、物の大切さ、有難さを実感させられた。それ以上に、心のやさしさ、他人様の不幸を、我が身と比較して、感謝の不足を思い知らされた。
被災を受けられた方々には、唯々御同情申し上げる。
運良く生存の結果を得られた被災者の方々、及び一般の日本人は、この大震災こそ、大自然の限りない警鐘、諌言と真摯に受け止めなければならない。資源も、食糧も乏しい日本であるが、幸い他国から、それ等の物資を充分に買い入れ、満ち足りた生活を重ねている最近の日本人は、なお足るを知らざる、感謝の心を忘れた日本人になっていた。
これが戦後国民の在るべき心構えなのか。こんな根性を神・仏が許す筈はない。
百貨店をぶらついてみても、欲しい物が無い。世界の超一流の有名ブランドを眺めながら、欲しい物がないとは何事なのだ。否、欲しいけれども、値が高くて分不相応の品物には手が出せないのが実体であろう。
ものごとの、すべては、受け止め方によって、その人を成長させたり、逆に愚かな人にすることになるのではないか。
東日本の大震災は、不幸な天の警鐘と論じて来たが、別の一面も忘れてはいけない。
多くの人命を奪い、多数の人々の生活を根底から破壊した、悲しむべき襲来であった。しかし、こうした大災害の渦中に在っても、被災地の日本人は、深い悲しみに堪えながら、現実を直視し、平静と規律を保ち、自制心を外すことなく、普段と同じ隣人愛を失わない姿こそ、高貴な精神を示している。その姿は、世界の人々に、称賛と驚嘆を与えている。
日本人は、道徳的に、その高さは普段から伝えられていても、今回改めて、その真価を示すことが出来た。これは、日本人が努力しても中々伝えられない「精神性の高さ」を宣伝することになったと嬉しく思う。
総理は三軍の最高指揮官
もともと自衛隊は、災害対策のために設立されたものではない。
何れの国でも、自主、独立の為には、外敵の襲来を想定して、国防を第一義と考えている。だが日本国憲法は、国防を否定しているから異常である。
自衛隊はそれ自身、自己完結の組織として結成されている。自分達の起居、飲食、そして一定期間の生活と補給が可能と考え、準備し編成している。その上、国土防衛の為の武器、弾薬は、第一級のものである。従って大災害時には、これ程に強力な支援組織はない。
内閣総理大臣は、陸・海・空、三軍の最高指揮官である。ゆえに毅然として、復興に万全を期せよと「命令」すべき立場に在る。
自衛隊には、毎年、四兆数千億円の国費を注入して、装備の充実を計り、ヘリも五十数機保有している。だが被災者に一週間を経ても未だ満足に食糧が届かないとはどうしたことか。
政府の自衛隊に対する態度は、余りにも他人行儀である。「要請したり」「決心してもらったり」と、腰の引ける態度は、命令者の立場ではない。陸上が無理ならば、当然、空の部隊が活動する。五十余機のヘリの活動をなぜ即座に命令しないのか。空幕は直ちに準備を整えているのに。日頃から、自衛隊の存在を遠避けているから気が引けるのか、それとも、自ら責任を取らない為の用心なのか。
被災地のすぐ隣には、大東京が控えている。都内の店には食糧が、溢れ返っている。
陸路が駄目だとの理由を付け。一日に一個しか与えられないオニギリ、被災者の空腹よりも、それを助けない政府に対し、日本人として怒りと涙を禁じえない。
こんな日本に誰がした。陸・海・空三軍が、一致協力して万全を期せよ、すべての責任は総理が取ると、なぜ指揮官が厳命しないのか。
日本を守る「最後の砦」として、国民が最も頼りにし、その期待に、ものの見事に応えてくれているのが自衛隊の活動である。そして確実に任務を遂行している。
某ジャーナリストは、大要次の如く報じている。
大地震からしばらくして、海上自衛隊の横須賀基地にも津波が襲った。
地方総監の髙崎博視海将は、総監室から港の海面が二メートル近く上昇しているのを見て「これは大変なことになった」と事態の重大さを直感したという。
自衛艦隊指令官の倉本憲一海将は、その時にはすでに「動ける艦はすべて出せ」と命令し、修復に入っている船まで動員した。
阪神淡路の深刻な反省から改められた、いわゆる「自主派遣」である。
正式の出動要請の前に、すべての艦艇が現地に向けて出航した。そして翌十二日未明には、二十隻余りが東北海域に入っている。
勿論、食糧や毛布など支援物資を積めるだけ積み込んで出航した。
「たかなみ」米丸祥一艦長は、偵察に出したヘリコプターから送られてくる映像を見て息を呑んだ「全滅だ」、と受け止めた。戦に臨む艦長の判断はすごい。
自衛隊は、国防という極限状態を想定して厳しい訓練を重ねている。最初から災害対処のみを考えていたら、今回のような「想定外」の事態には、到底対処できなかった。
復旧の任務で、ガレキの下に人の居る可能性があるから、ブルドーザーで一気に撤去できない。一つ一つ丁寧に確認しながらの作業となる。遺族の為を最優先とする。
遺体が見つかることもある、これは通常の状態の遺体ではない。腐敗した体液、腐乱死体、通常の神経では耐えられない。
ガレキの中に、被害者にとって大切な位牌や写真が、大切にカゴに入れて保管している。
隊員は、自分達の食糧をも被災地に配っている者も居る、炊事車も被災地のために使われている。――精神的困難に耐えつつ、自衛隊員は任務を遂行している。
「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえることを誓います 」自衛隊員は入隊時に宣誓する。この人達こそ、真の日本人だ。
菅総理は即時辞任せよ
被災者住民の道徳的態度、及び自衛隊の献身的規律と行動に対して、世界各国は注目と畏敬の念をもって被災地を見守り、台湾をはじめ各国から救援の資金を供して下さった。
それと対比して、菅総理の政治姿勢は、某評論化の言によれば「指針なき羅針盤の如きもので、己の己による己の為の政治」だと、NOを突きつけている。
災害復興のリーダーシップを執っているつもりらしいが、思い付きの発言の連発で現場を混乱させるばかりのようだ。
菅直人氏は、もともと、アジテーターであり、すべてが人気取りである。そのアジが時宣に適した時も在った。だがそれが、今回の混乱の元凶となっている。
大災害の不幸が、かえって日本国民の精神性の高さを証明しつつあるのに、国家を代表する政府の対応が、余りにも劣悪であることに、他国の人達は不思議に眺めている。どうして国民と政府と間に、こんな良、不良のギャップが生じたのか、改めて申せば、このような「誤った政権」を生んだがゆえに、日本国家は未曾有の大災害を招いたのだ。
その証拠に、民主党政権と、菅内閣のブザマな姿を見よ、と大自然が、あからさまに日本国民に、在りのままの姿を示し、呼びかけて居るのではないか。
現在必要とされていることは、大震災を機に、これまでの日本政府の惰性と閉塞を打破し、刷新することである。一国の総理の不信な行為が亡国に繋がっている。一刻も速やかに菅政権を退任させることが大天災を鎮める第一歩であると云うべきだ。
|