一刻も早く総選挙を 平成二十四年三月下旬 塚本三郎
「言うだけ番長」
民主党の前原誠司政調会長が、自身の言動に関する報道内容を理由に、産経新聞の取材を拒否した。だが間もなく出席を認め、「マスコミの取材の自由及び報道の自由を制限するつもりはない」と述べ前言を取り消した。
八ツ場ダムの取り消しを指示したが、やがて復活を認めた、彼の大胆な発言は余りにも有名である。「言うだけ番長」とは、前原氏に付けられた「綽名」らしい。
先に言ったことを、間もなく取り消す常習者と評されたようだ。
言ったことによって、いっときでも、関心を寄せる為の言葉の乱用なのか、それとも、思いつきを、すぐ発言する性癖の主人なのか。
政治家にも、マスコミや評論家にも、最近、新しいカタカナの言葉を使う。我々昭和初期の老人には、理解に苦しむことばが多く在る。若者の間で流行させたものなのか。
政治家は「言行一致」が大切である。出来もしないことや、やれる自信がないのに、国民受けのする言葉を乱用して良いのか。それが政治不信の原因となっている。
「マニフェスト」とは何ものなのか。政界に青春を懸け、戦後初期に政界入りした私どもは、一度も使わなかったし、聞いたことさえなかった言葉である。
前原氏以上に「言うだけ番長」は、野田総理自身ではないのか。
さきの総選挙で「公約した」政策の殆んどを放棄し、やがてその反対、即ち自民党の政策のマネを繰り返しても、恥ずかしいとも思わない厚顔無恥はとも角として。
一番難しく庶民の嫌がる増税には、反対の多いことを承知していても、痛みを強いる政策を、法律として成立させる為、政治生命を懸けると吐露している決意は立派だ。
ならば野田氏自身が「総理の間に実施してこそ」、制定の価値がある。
二年先の実施を法律に定めるのは、最早、自身は退任させられているはずだ。自分の任期々間内では実行に移せず、次か、その次の総理に、増税の重荷を押し付けることは、それこそ「言うだけ番長」ではないか。
衆議院で圧倒的多数を擁する民主党内に在っても、信用力、及び力量に自信を持たない野田首相は、先ず党内の統治力把握の為、心ならずも、反主流の代表として、興石氏を幹事長に迎えた。それでも閣内の人事は、万事首相の指示通りにはならず、反主流派の主役小沢一郎氏の指示をストレートに受けて、興石氏は党内のベテランよりも、自派の素人議員を大臣にと押し込んでいる。それでも、野田首相はノーと言わず、適材適所と「言うだけ番長」だ。防衛相の一川氏や田中氏の起用は、余りにもみじめではないか。
まして、「社会保障と税の一体改革」については、不退転の決意と強調しているのも、民主党内よりも、自民党の協力を得ることで、小沢一派を抑え込みたいとの願望がありありとみえる。――消費税一〇%は、自民党の従来の主張であり、「抱き付き政策」とヤユされるゆえんである。そのことが、逆に小沢氏から、倒閣を宣言されるに及んでいるようだ。
行政改革、公務員の削減
国及び地方公務員の給与及び国の地方出先機関の整理統合等及び、二〇%削減は、自分の政権下で実行してこそ政治家ではないか。不人気の法律が、次の代に残されたら、野党ならずとも賛成しかねるのは当たり前である。
国家公務員は、自衛隊員を除いて約三十万人、うち二十二万人が国の出先機関である。国は、出先機関の官僚を通じて、建設、農水などの事業を管理し地方行政を支配している。
既に、全国の各都道府県の県庁の各部長は、国から天下って来た官僚が多くを占めている。だからこそ、中央の省庁と府県の行政が、一体的に意思疎通が進められている。
その上、全国地方各ブロックに、例えば、中部九県下を統合するため、地方出先機関に、中央から官僚が県庁の上に居座り、各府県にニラミを効かせている。例えば、 名古屋には財務省から、国税局長、財務局長、税関長の三名の局長が天下っている。
各府県の部、課長は、直接本省に陳情する前に、先ずこの国の各省庁の出先機関の責任者に、ご意向を伺った上でなければ、各省庁や大臣への陳情が難しい。
それこそ地方にとっては余分の組織で「地方のコブ」と、私は評しており、その無用と云うよりも、有害な組織が一部に在ることを、既に四十年前から、地方行政の能率化の為に、行政改革として、増税の前の不可避の改革なり、と予算委員会で訴え続けて来た。
しかし、自民党政権下で、高級官僚がそのまま総理大臣(吉田茂以来の官僚行政)の如く、官僚主導の政府の体制下では、私の主張は受け容れさせることが出来なかった。
官僚組織と政治主導
人間の持っている、能力は無限で際限が無い。例えて言えば、
人間に備わった欲望は五体に働き掛ける。列車に例えれば機関車であろう。その力が強い程、強力な牽引力として多くの荷を引きずり、速度を増す。
だが、人間社会は、無人の広野ではない。山在り谷在り、その上、河が横切り、海岸では、停止を余儀なくされる。欲望と云う名の機関車には、運転手と云う理性と、先を見通す知性が必要であることは申すまでもない。
国家に例えれば、官僚と呼ぶ機関車が在る。国民の為の行政は、大衆の為の機関車と云うよりも、或いはゴー・ストップの合図を示す信号かもしれない。
国民は官僚を「おかみ」とあがめ、最高学府を卒業し、国家試験の最高位をパスした人物が、各省庁のエリートコースに就き、年々、その地位を登り詰めて行く。
最後はその省の局長、次官を経ても、それでは終わらない。国家の関連機関の公社公団のトップへと天下りする、更に大企業のトップにもらい受けされて、でんと腰を据える。
自民党政権時には、以上の中から、国会議員として迎えられ、やがて総理大臣へと多くの人物が押し上げられた。以来、その後も係累の逸材を総理として迎えた。
民主党が「政治主導」を公約の中心点として主張したこと自体、戦後政治の歴史を振り返ってみれば、国民も納得したに違いない。大きな拍手をもって新政権を迎えた。
今度こそ、官僚政治から、国民の為の「本来の民主政治」へと、立ち戻ることが出来るかもしれないと期待した。結果は前述の如くで、悉く失政の数々である。
代々の自民党政権は、政治主導でなかった、官僚主導とみるのは誤りだろうか。
形式的には、曲がりなりにも政治主導であったと云いたい。高級官僚の人達は、権力の偉大さを経験し身に積まされて、出発から途中までが官僚であって、中途で政治家に変心したまでである。ならば官僚と競い合って、長年、立法府に生きた非官僚(民間あがりの国会議員)が、純粋の官僚上がりよりも優れていたのか。
民主政治下では、出生の身分によって差別することは許されない。
国民大衆はそれを承知の上で、選挙に臨み、代表者を選び抜いて来た。非官僚あがりの
田中角栄元総理こそ、その典型だ。優勝劣敗は、自由世界の動かないルールである。
敗者が、勝者の出身を非難することは、見苦しい。我々が在籍した昔の民社党は、長年敗者で忍び続けた。それでも、勝者が官僚で在ったことを愚痴ることは恥ずかしかった。
民主党を名乗る野党に対して漸く、今日現在天下の権力が与えられた。
その民主党政権が辿った今日迄の失政の結果は、重ねて述べるまでもない。
官僚にも多くの欠点が在ることは前述した。だが、その欠点を補い、我々の長所はこれだと、主張したのが「政治主導」であり、「マニフェスト」の実施であった筈だ。
政権を担当して二年半。公約したマニフェストの数々は実行されず、野田首相はあきらめたのか。自民党にスリ寄りつつある。民主党が前の総選挙のとき、国民を騙したとは思わない。野党の身軽さで、自民党を非難攻撃する材料として、素人の立場で、勉強不足のゆえの公約だったと、まず正直に謝罪し、改めて国民に信を問い直すべきではないか。
主張したことはすべて正しい。しかし政治の世界は、それを実施してこそ政治である。
云うだけならば、漫談である。上品に述べれば「言うだけ番長」なのか。
民主政治の功罪
「おかみ」と称される程に、地位と権力をも備えた高級官僚とて万能ではない。自身の所属する省庁に対しては支配の力が及んでも、他省庁には、力及ばず無理である。
国家の政治権力は、国家全体の立場に立つ統治能力と、権力保持が前提である。国家意識、責任能力、そして大胆な先見性と、人格を具現した人格者こそ政治家の資質である。
だがそれは、前提であると共に、必須の条件である。さりながら現実の与野党の政治家には、余りにも、前提と遊離していることを認めざるを得ない。
民主主義と呼ぶ政治には、選挙制度と云う決定的な関門が待ち構えており、その結果、政治を卑しく劣化せしめている。勿論選挙が政治劣化の主役と断定するものではない。
民主政治をして、ギリシャの哲人、アリストテレスは「愚民政治・堕落政治・数による暴力政治」の三悪政治、と評した。だがそれを平穏裏に改めることを選挙と呼ぶ。
各民族、及び国家と呼ぶ集団には、強力なパワーを持つ支配者が君臨していた。それを「独裁政治」として強固な国家を築いて来た歴史の数々も少なくない。
その統治力の一面は政治家としては最も理想的、合理的な政治であることは認める。だが、その欠点もまた余りにも多く、大きいことが、歴史上屡事件を語り継いで来た。
皮肉なことに、今日の愚民政治と化した民主主義の国日本に在っては、独裁者の如き、強力にして決断力に富む、指導者の出現を望んでいる。これは贅沢な期待か。
民主政治の欠点そのままが、恐るべき、独裁者の出現を期待していると云ってもよい。
現在の民主党政権の二代の愚策に国民はアキレハテている。代った野田首相は「言うだけ番長」の主役であった。既に、このまま日本は衰退し、ジリ貧を待つのみか。
国民が待望している大阪市長橋下氏の「維新の会」の出現が期待されるゆえんである。
ともあれ、国民の鬱積しつつある政治、経済の、向け処の無い今日の不満を解消する為には、一刻も早く国会を解散する以外にない。それが民主政治の長所である。
党在って国家なし、政権在って国民なし、野田首相の言葉はやさしいが、こんな不忠の臣、こんな言うだけ番長の、卑怯にして、「不遜な政権の終息」を国民が待望している。
日本が危ないとの、焦りと危惧がいっぱいで、その湧き出る気分を善導する時が来た。
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