山口敏昭
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【解説】大田・絵堂(おおだ・えどう)の戦い
慶応元年(1865)1月、美東町の大田・絵堂を主戦地として、保守派の萩政府軍と、高杉晋作らの諸隊との戦い。蛤御門の変で大敗して「朝敵」とされた長州藩が、幕府の出す条件を唯々諾々と飲んでいることに危機感を募らせた高杉晋作は、下関の功山寺で決起。諸隊もこれに呼応して美祢市の伊佐に移動を始め、これを鎮圧しようとした萩政府軍とが対峙。1月6日夜半、諸隊側の奇襲で始まった戦闘は、10日間の交戦で諸隊が勝利。
これが萩藩の政治転換をもたらし、藩主・毛利敬親は保守派をしりぞけて、幕府軍に対抗するため大村益次郎を登用して、慶応の軍政改革に着手。第二次長州征伐で長州側が勝利することで、幕府の弱体ぶりを露見し、時代は明治維新へと突き進むことになる。大田・絵堂の戦いは、不幸にして同じ藩内で、敵味方に分かれて戦い、それぞれに犠牲者が出ている(表参照)。
現在の豊かな生活は、そうした先人(先祖)の努力や犠牲の上に成り立っており、その先人への感謝報恩と慰霊、子孫への責任の思いを表現するのが慰霊・供養の儀式といえる。
【参照】
大田・絵堂戦役の戦死・民家焼失数
月日
場所
正義党
俗論党
民家焼失
1月7日
絵堂
3
5
1
10日
長登
1
1
6
10日
川上
8
5
7
10日
大木津
2
1
14日
若水
1
10
16日
赤村
2
2
合計
17
24
14
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約10日間の戦争で両軍合わせて
41人の死者を出し、長登や川上の
民家が戦火にみまわれた。