戦闘開始までの状況
文久3年(1863)6月、騎兵隊の編成が認められました。攘夷戦を実行するための部隊でしたが、翌元治元年(1864)8月の連合艦隊(英・仏・蘭・米)との戦闘で、期待された成果をあげることが出来ませんでした。この敗戦で、長州藩は外国との力の差を知り、英国と接近しました。新式兵器の購入、洋式戦闘訓練の採用により強力な戦闘集団へと成長していきました。この間にも多くの「隊」が編成されました。主力は農民出身者で、編成された隊を総称して「諸隊」と呼ばれました。
長州の政治は、主導権を「正義党」と「俗論党」が交互に握るような状態でした。元治元年(1864)8月の「蛤御門の変」で敗戦したことで、主導権は椋梨藤太を中心とする俗論党が握ることとなりました。このため「諸隊」にも解散命令等の圧力が藩庁から加わりました。12月功山寺の会合でも、高杉晋作に従うものは少数でした。挙兵成功の目算は低く、状況は流動的で、多くの諸隊は日和見状態にありました。16日の下関新地会所襲撃は藩庁側も予測していたらしく、ほとんどの武器・弾薬等物資は萩に持ち出されたあとでした。この時も奇兵隊を中心とした、多くの諸隊は静観しており、高杉挙兵の影響はまだ生じていませんでした。
蛤御門の変で負けたことにより、三条卿ら御公卿が長州に亡命していました。幕府の長州征伐の圧力を軽減するため、俗論党の藩庁は公卿の九州移転を決定しました。16日、藩主敬親公への移転挨拶のため萩に向う、二公卿護衛に諸隊も、萩に向け同行しました。色々な資料には、この行動が高杉の命令、あるいは同調としているものもありますが、疑問に感じます。山県は、高杉の下関新地所襲撃の同日に長府から伊佐に転進していることを見ても、別行動と思われます。
このころ、萩の藩庁には、長州討伐総督府から降伏条件の実施状況を監察する特使が来ていました。このため藩庁は、萩での戦闘を恐れ、公卿の萩入りを拒否しました。高杉の挙兵も加わり、藩の掌握力を監察使に示すためにも、諸隊の武力討伐を決意したのでした。
26日には先遣隊の栗屋帯刀が絵堂に出陣、別の一軍が財満新三郎と共に赤村に進出し、児玉若狭が大将で三隅に陣を敷きました。28日には、総奉行として毛利宣次郎が明木に出陣しました。総兵力1.900名をもって、大田に陣取る諸隊を、半包囲する態勢で布陣しました。藩庁軍が攻撃を早期に実施しなかった理由は判然としませんが、この軍勢の力をバックに、藩庁の権威で従わせることができると思ったのだろうと想像できます。
19日の伊佐到着以来、藩庁との交渉を続けましたが、25日に二公卿は萩入りを断念して、27日に伊佐を出ました。山県は公卿の護衛を名目に、萩で藩主に対する言上を目的としていたようです。そのため公卿が長府に帰還した後も、言上のチャンスを狙って大田に滞陣したのではないかと考えられます。
元治2年(1865)正月2日、高杉は少数の兵力を率いて、再び下関の新地を襲撃します。藩庁は、高杉討伐を名目に軍勢の北浦通過を主張しました。ここにおいて、戦闘を決意した山県は、藩庁の使者をあざむいた上、奇襲を計画しました。高杉の挙兵に同調しなかった山県ですが、藩庁の命令に従って諸隊の解体に同調するつもりもありません。諸隊幹部が武力を失った後に俗論党からどんな扱いを受けるかも知れませんし、切腹させられるかもしれません。つまり、自己防衛として藩庁軍との戦闘を決意したと思われます。
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